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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1961

「それじゃあリザーブで好いんですね」「うん、前払いにするよ」結局、店に在庫を置いている銘柄の中では最も高級感があるサントリー・リザーブをキープした。ママさんがボトルの首に紐で掛けるプラスチック製の札を手渡したので漢字で「野咲」と書いた。これは2人が自衛隊を退役してハワイのノザキ家の養子に入る時、日本で用いるように夫が考案した姓だ。日本の国籍法では二重国籍が認められておらず、自衛官は日本国籍を有していることが資格要件になっているのでハワイ州での家族養子の手続きは終えていてもアメリカ国籍は取得していない。逆に志織だけはノザキ家の養子に入った際、アメリカ国籍を取得したので22歳に達するまでに日本国籍を放棄する手続きを行うことになる。法手続きの専門家の夫がいれば任せておけば良かったが、それも佳織の仕事になった。夫は志織の手続きの際、知人の法務官僚に「占領下の昭和25年に制定された日本の国籍法のせいで親子が引き裂かれた」と文句を言うことを楽しみにしていたが佳織にそんな趣味はない。
「お酒は水割りで良いのよね。旦那さんは泡盛をストレートだったけど」「うん、それでお願い」佳織が考えごとをしているとママさんが声をかけた。出会った頃から夫は焼酎や洋酒もストレートかオンザロックで飲んでいた。それは最初に洋酒を教えられたアメリカの軍人たちに「水で薄めると本当の味は理解できない」と言われたことに共感したためだ。しかし、東京拘置所に収監されている間に糖尿病を発症してカロリー制限を受けてからは水割りにしていた。それもインスリンを摂取するようになって復活させたようだ。
「本当の好みは違うんでしょう。用意しておくから言って」「特にこだわりはないけどヴォ―ボンが飲み慣れてるわね」「ヴォ―ボンって・・・」「日本人はバーボンって呼んでるよ。ジャック・ダニエルが良いな」佳織にとってバーボンは大学とアメリカ陸軍の指揮幕僚大学院の首席で飲んだ銘柄だった。香川で誘われた高級クラブで「バーボンが好み」と言えば日本では最高級になるワイルド・トゥーキー(=ターキー)だったが自腹ではこの程度だ。
「旦那さんが古いアニメ・ソングを唄うと歌詞の画面が懐かしいからリクエストが続出していたわ。それでも全部唄えちゃうんだから感心しちゃった。よっぽどテレビっ子だったんだね」佳織が水割りを飲み始めるとママさんはカウンター越しにメニューを渡しながら夫のこの店での姿を説明した。夫の歌好きは相変わらずだったらしい。
「その逆みたい。チャンネル権は父親と妹に握られていたそうよ。だから見られた時には全神経を集中させていたから完壁に憶えたんだって」佳織自身は中学生までハワイで過ごしたので日本のアニメは全く知らない。だから夫の特技にも関心がなかった。それでも前川原の飲み会でアニメ・ソング・メドレーを披露して同期たちの賞賛を浴びていたことを思い出した。
「奥さんは何か唄わないの」「ビートルズにカーペンターズ、それにサイモン・アンド・ガーファンクルとあとはオールディーズしかないみたいね。日本で言えば懐メロだわ」最近のカラオケは中継局との接続でジャンルを問わず無限大に近い楽曲を選択できるようになっているが、この店では昔ながらのレーザー・ディスクなので、曲目は日本人が根強く愛唱する往年のヒット曲に限定される。佳織はメニューを閉じるとカウンターの脇に置いてグラスを口に運び始めた。高松の県内要人たちとの交換会では、共通の話題を作ってその延長で河岸を変えていたので会話が途切れることはなかった。何よりも佳織は美貌の女性地方連絡本部長として高齢の男性たちに気を遣ってもらっていたのだ。
ママさんとしても完全に場違いなこの古い馴染み客の取り扱いに困ってきた。この女性も夫と来店していた頃には誰が見ても熱愛夫婦で、理解できなくても聞いていて興味が湧くような硬軟派上下品・古今東西の話題で盛り上がっていた。あれほど魅力的だったこの妻も今では妙に高慢で冷淡な雰囲気を感じさせるようになっている。
「いらっしゃいませ」そこに2人の男性客が入ってきてママさんが声をかけた。それは顔だけは知っている馴染み客だった。2人はカウンターで決めている指定席に腰を下ろすと高松で磨きをかけた営業用スマイルを浮かべた佳織の顔を覗き込んだ。
「あれッ、坊主の弁護士の隊員さんの奥さんじゃあないですか」「はい、お久しぶりです」「坊さんは海外に転勤になったって聞いたけど奥さんは着いて行かなかったんだ」男性客の無神経な反応に佳織は作り笑顔を消すと顔を前に戻して周囲に城壁を作った。ママさんは男性客にお絞りを渡しながら横目でそれを確認した。
「やっぱりアメリカ勤務が長いとウチみたいな店ではかえって落ち着かないみたいね。ボトルのキープは無理しなくても良いのよ」ママさんは遠回しに佳織の来店を拒否した。やはり庶民の店の雰囲気に今の佳織は異質の高級ブランド品なのだ。
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  1. 2020/06/30(火) 13:32:57|
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