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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1962

「おはようございます。淳之介です」スイス旅行から帰り、私たちの初孫の恵祥にチューリッヒの商店街で買ってきた手造りの玩具を送ると何故か淳之介がお礼の電話をかけてきた。以前は時差を実感できずにずれた挨拶をしていたが、流石に1年近くが経つと要領が呑み込めてきたようだ。今頃、沖縄=日本標準時では午後5時頃になる。
「淳之介は首里からかけてるの。夏の休暇にしては早いわね」モリヤは持久走に出ているため電話に出た梢は少し困惑していた。淳之介の離島航路の連絡船も梢の旅行社と同じく夏休み期間中は本土からの観光客への対応で休暇は取れない。今年も夏の休暇は太陰暦8月15日であるウチナー盆の9月19日前後のはずだ。
「うん、8月11日に与那国島の町長選挙があって本土のマスコミの人間が押しかけて来たんだけど、(選挙の争点の)与那国島への自衛隊の配備の理由になっている『近海の中国船を撮影したい』ってウチの会社に申し入れてきて臨時便を出したんだ。ところが1つの局が撮影したって聞いたら別の局も申し入れてきたから、離島便は社長が操船して俺も与那国に行ったんだ。だから本土のお盆休暇が終わって観光客が落ち着いたところで早めに休暇がもらえたんだよ」意外な説明に納得はしたが心配にもなった。
「でも中国船は海上保安庁の巡視船に衝突してきたくらいだから近づいたら危険でしょう。それにマスコミの人って迷惑を考えずに無茶苦茶な要求をするから心配だわ」梢はモリヤから尖閣諸島周辺海域での中国漁船の違法な行動とマスコミ関係者の独善的で悪質な暴挙の数々を聞かされているので淳之介がそれに関わったと聞かされるとあかりの母としても背筋が寒くなる思いだ。すると淳之介は苦笑したような口調で説明した。
「俺ってナイチャア(本土の人間)の顔だろう。だから出航して中国船を探している間に記者が質問してくるんだ。それで『父親は東京で弁護士をしている』って答えるとビックリして無理なことは言わなくなったよ」「確かに嘘はついてないわね」淳之介がどこまで計算して父親の副業を利用したのかは判らないが、マスコミが不当行為を告発される惧れがある弁護士を警戒しているのは間違いない。しかし、東京の弁護士の息子が沖縄に限らず離島航路の乗務員として働いていると言うのは極めて少数派のはずだ。
「それで記者たちは信じたの」「中には『名前を言え』って追及してくる奴もいたけど、『事務所の住所を教えるから自分で調べろ』って言ったら黙ちゃったよ」ここで教えるのは東京都新宿区の市ヶ谷駐屯地の住所だろう。それなら東京の弁護士になる。
「親父と一緒にスイスへ旅行に行ったんだね」「お父さんが『沖縄には山がないから私にアルプスを見せたい』って言うから行くことになったんだよ」ここで本論に入ったが電話の向こうで恵祥が木製の玩具で遊んでいる音が聞こえてきた。どうやら木彫りの動物の人形を動かしながら鳴き声を真似ているようだ。あかりは動物の形や動きが判らないので淳之介が教えたようだ。
「お父さんは貴方とあかりにもアルプスの風の音や高山植物の匂いを経験させたいって言ってたよ。私たちがいる間に来られればいいね」「お義母さんは親父と一緒で幸せだったんだね」梢は淳之介に今の想いを言い当てられて、胸からそれが熱く溢れ出してきた。
「ずっと願い続けてきて叶うはずがないって諦めていた思いが実現して、今でも夢を見ているみたい」梢は説明しながら涙ぐんでしまった。その鼻声を聞いて淳之介ももらい泣きした。最近は電話で聞く父の声も元気と自信に満ち溢れている。志織でさえも海外に赴任した父に梢が同行していることを感謝しているのだ。
「俺たちは親父のおかげで船岡の千本桜と雪の蔵王山に行けたから無理することはないよ」「そう言えば私もバートラガーツで温泉に入っちゃったんだ」淳之介が自分を納得させるために口にした言葉に梢は想定外の反応をした。沖縄で接していた義母は頭脳明晰で真面目な堅物だったはずだが、父と再会を果たして以来、急速に若返ってお茶目で魅力的な女性になっていった。あかりとつき合い始めた頃、義母は父との交際を「愛情を全力投球でキャッチボールしていた」と懐かしんでいたが、それを再開して破られた青春時代を修復しているに違いない。
「凄いなァ。俺たちが東北で初体験したことをアルプスでやってきたんだね。お見逸れしました」「でもニンジンさんにとって先祖の土地の山形の蔵王山は別格の山だからアルプスとは比較できないそうよ」やはり義母は父の認識が淳之介への弁護になることを知っている。この家族としての波長は淳之介にも安心を与えてくれている。
「それに世界一の沖縄の海を職場にしているんだから俺も負けてないぞ」「そうだよ。あかりは貴方を通して世界を見ているんだからね」義母の言葉に淳之介は深くなずいてあかりに電話を代わった。淳之介は恵祥に木彫りの動物の動きと鳴き声をもう一度教え始めた。
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  1. 2020/07/01(水) 13:52:09|
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