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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

7月2日・アメリカで人種差別を禁じる公民権法が成立した。

1964年の7月2日にアフリカ系アメリカ人に対する差別を禁止し、選挙や就学などでの同一の権利を保証する最初の公民権法を南部でも農業には不向きなテキサス州出身のリンドン・ベインズ・ジョンソン政権が成立させました。補足すればイギリスがアフリカの植民を含む全国土での奴隷禁止法を発効させたのは1834年8月1日であり、エイブラハム・リンカーン大統領がネイティブ・アメリカン(=インディアン)に対しては徹底的な差別と迫害を加えながらヨーロッパから批判されていた奴隷制度を禁止する合衆国憲法の改定に署名したのは南北戦争に勝利した直後の1865年2月1日のことでした。
リンカーン大統領の署名から100年近くが過ぎてもアメリカではヨーロッパ系優位の社会制度は変わらなかったのですが、第2次世界大戦の兵員不足でアフリカ系の若者も徴兵の対象にせざるを得なくなり、その時にフランクリン・デラノ・ルーズベルト政権が「兵役の義務と引き換えに同等の権利も付与する」と口約束したことが戦後にアフリカ系アメリカ人の公民権運動が高まった遠因でした。
1950年代に入ってもアフリカ系の人々を綿花栽培の奴隷として「言語を話す家畜」扱いしてきた南部では州や市町村などの自治体が州法と条例で合衆国憲法に基づく正当な権利の要求を拒否し、鉄道などの教教団隊や企業では「差別することが多数を占めるヨーロッパ系の客に対するサービス」として公然と行われており、中でも学校教育では義務教育でも人種で学校を分け、学校を分けることができなければ教室を分けるのが常識になっていました。さらに大学では裁判所の権利認定を受けて受験したアフリカ系の学生が合格すると学生たちが迫害を加え、地元警察が介入してもヨーロッパ系の警察官たちが暴行に加担したため州兵が出動し、州兵も同様だったのでジョン・フィッシュランド・ケネディ大統領が連邦軍の出動を命じる事態まで発生したのです。こうした衝突の中、多くのアフリカ系の若者の命が奪われ、マーティン・ルーサー・キング牧師が主導する非暴力主義運動よりも過激な敵対行動を主張する活動家が支持を集めるようになった時期にケネディ政権の副大統領だったジョンソン政権の粘り強い議会工作によってこの法律が成立したのです。
私は若い頃、ヨーロッパ系のアメリカ空軍軍人の娘と交際していましたが2人での外泊が許され、結婚を考えるようになると「人種差別」と言う問題が不安になり、率直に両親に訊いてみました。すると少佐の母は「アメリカには公民権法があり、人種差別は違法行為だ」と即答し、1等軍曹の父はアメリカ空軍での敬礼教育の喩え話を語ってくれました。それは「ヨーロッパ系の兵士がアフリカ系の士官にワザと欠礼をした。すると士官は『私が誰であるかは問題ではない。合衆国が与えたこの階級に君は敬礼する義務がある』と言って敬礼をさせた」と言うものでした。
確かに空軍の酒席ではヨーロッパ系とアフリカ系は離れて飲んでいることが多かったですが、それでも勤務中は命令と服従に人種意識は介在せず「公私のケジメ」で個人の感情は抑制されていました。一方、海兵隊の方が過酷な訓練や実戦の中で体力に勝るアフリカ系の同僚に敬意を抱くことが多いためなのか差別意識は薄く、実力主義が濃いようでした。
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  1. 2020/07/02(木) 13:33:29|
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