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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1963

志織は夏休みを利用して自家用飛行機の操縦免許取得の講座を受けている。海軍航空隊の対潜哨戒機パイロットを目指す上で操縦免許を取得し、飛行経験を有していることは大きなセールス・ポイントになるため本音では大学の勉強以上に真剣に取り組んでいた。幸い志織には予備士官訓練課程の父と同様に熟練パイロットがついているので学科と実技の教育体制は完璧だ。これではノザキ家は海軍の私設パイロット養成所のようだ。
「今日は実技だが天候はどうかな」今朝は佳織が骨休めのための寝坊をしているので祖父母と志織だけの朝食になるが、ノザキ中佐はソファーに座ってテレビのニュースを見ている志織に詠み終えた新聞を手渡すと教官として質問してきた。ハイ・スクールに入った頃には上空で無資格操縦をさせていたが、操縦練習飛行許可を取得してからは操縦教育証明の資格を保有しているノザキ中佐を教官にして正式に操縦訓練を実施している。
「優勢な高気圧がハワイ海域に張り出しているから天候は快晴、気流も安定しているわ。この天候と気温ならアイシングも心配ないわね」「セスナの飛行高度ではハワイ上空でのアイシングはないだろう」志織は新聞の気象欄の天気図と気圧の数値を見ながら答え、先に確認していたノザキ中佐も大筋で同意した。アイシングとは雲の中で機体に氷の粒がシャーベット状に固着する現象で、ラダ―(方向舵)やエレベーター(昇降舵=尾翼全体が動く物はスタビレーター)、それにフラップ(揚力補助翼)が凍結すると操縦不能に陥る危険がある。高空の気温は成層圏の気流などの影響で地上が温暖でも急激に低下することがあるから空港でのウェザー・ブリーフィング(気象概報)では高度別の気温予想も説明する。ただし、気密性が不完全な旧式のセスナ機では限界上昇高度1400フィート=4267メートルを飛行することはないのでノザキ中佐が言う通り、夏のハワイではあまり心配いらないだろう。
「お前は操縦免許の講座の科目の中では何が一番得意なんだ」スザンナが朝食を運んできたのでソファーからテーブルに移ったところでノザキ中佐が質問した。操縦免許の講座には航空工学、空中航法、航空気象、航空通信、航空法規がある。志織の父は法律家、母は大学で心理学専攻だったから基本的に文科系の遺伝子を受け継いでいる。それでもハイ・スクールの成績を見る限り父のような得意と苦手の極端な偏りはないようだ。
「航空工学はパイロットのグラダディだけじゃあなくて元航空機整備員のダディついているから完璧よ。空中航法と航空気象、航空通信もグラダィに習えば安心ね。航空法規は流石にダディも専門外みたいだけどグラダィなら日常生活のマナーみたいなものでしょう。信頼しています」航空工学については飛翔体の運動特性などの物理学的な理論よりも航空機の構造や機能が中心なのでパイロットよりも整備員からの知識の方が役に立つ。ノザキ中佐自身も機体の構造については飛行前点検で確認し、操縦中に警報装置や警告灯が作動しても発生状況を通知しただけで故障箇所の探求や部品の交換などは経験していない。
「つまり心配ご無用と言うことだな」「うん、心身ともに健康に育ててくれて有り難う」志織の返事にノザキ中佐は大きくうなずき、頼もしい孫の顔をスザンナは誇らしげに見詰めた。
「マサトは取得可能年齢になるとレクレーション・パイロットやスポーツ・パイロットの資格を取って空を飛ぶことに熱中してたけど、志織はグライダーには興味がないの」楽しげな祖父と孫娘の会話を聞いていたスザンナが思いがけない質問を挟んだ。マサト・ノザキ中尉は志織の叔父に当たるノザキ中佐とスザンナの間にできた1人息子だがアメリカ空軍の戦闘機パイロットになったものの秘密任務で殉職し、軍からは説明がなく遺骸も還っていない。志織はスザンナの表情に哀しみの色はなく、親代わりの義祖母として訊いていることを確かめて答えた。
「学校にはハングラーダー部があったけど私は居合道や茶道が忙しくて参加できなかったわ。その分、グラダディに飛行機の乗せてもらったから満足してたよ」「飛行感覚を身につけるには無駄ではないが、エンジン付きの飛行機の操縦でなければ1903年12月17日にノースカロライナ州キティホークの海岸で飛び立ったライト・フライヤー号にも乗れないぞ」結局、祖父と孫娘は朝食の最中から舞い上がっているようだった。
「それでは出撃します」志織はマサトが同じくらいの身長だった少年時代に愛用していた飛行服を着て玄関を出ると見送っているスザンナに敬礼をした。その形は父から習った陸上自衛隊式でも祖父からのアメリカ空軍式でもなく日米共通の海軍式だ。
祖父も現役時代の飛行服を着て車の運転席で待っている。これからホノルル市郊外にある軽飛行機用の飛行場に向かう。飛行機に縁がない日本人は「墜落事故」を過剰に心配するが、アメリカ人にとってはドライブや海で溺れるよりも危険性が低い高級な娯楽だ。それでもスザンナは空軍士官の妻らしく顔を引き締めると額に手を掲げ、視線を2人に送った。
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  1. 2020/07/03(金) 14:07:05|
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