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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

7月4日・日本陸軍軍楽隊の育成者・シャルル・ルルー大尉の命日

1926年の明日7月4日は明治初期に来日して素人同然の陸軍軍楽隊を育成しながら組織の体裁を整え、山口軍閥の画策で陸軍分列行進曲になった「扶桑曲」「抜刀隊」を作曲したフランス陸軍のシャルル・エドゥアール・ガブリエル・ルルー大尉の命日です。
ルルー大尉は1851年にパリで高級家具店を営む裕福な商家に生まれ、幼い頃から音楽に親しんで育ち、1870年にパリ音楽院に入ってピアノを学びました。1872年に召集されて陸軍に入ると翌年には歩兵連隊の軍楽隊に配属され、1975年に別の歩兵連隊の軍楽隊に転属して副隊長になり、1879年からは隊長になりました。明治17(1884)年に第3次軍事顧問団の一員として来日すると前任者が教えた基礎を引き継いで演奏を指導し、明治10(1877)年の西南戦争の田原坂の激戦で活躍した会津出身者の抜刀隊の武勲を記念するとの名目で実際は鹿児島陸軍閥の主だった西郷南洲翁が賊徒となった史実を継承するために山口陸軍閥が要望した軍歌「抜刀隊」と長い伴奏である「扶桑曲」を組み合わせた陸軍分列行進曲を作曲しました。さらに軍楽隊員の選考に試験を導入し、教育軍楽隊を編成して能力の底上げと底辺拡大を図り、教則本に基づく楽器奏法や音楽理論、楽譜読解などの基礎教育を普及・徹底し、軍楽隊規則を制定してプロとしての規範を指導しました。さらに軍隊の外でも鹿鳴館での舞踏会や学校教育を通じて日本国内での西洋音楽の普及に尽力したのです。こうした功績に対して明治19(1886)年に勲5等旭日章を贈られながらも明治22(1889)年に任期を8カ月残して帰国し、母国の歩兵連隊の軍楽隊長に復帰しました。ところがフランス陸軍への報告書には「日本人は決して良い音楽家ではないと断言できる。まずその天性が音楽に向いておらず、さらに音楽上でより重要なことは音感を欠いており、楽譜に誤りがあっても見分けることができず、それを修正することは不可能で、音楽においても他の事柄同様に模倣者である。生憎この技術は形式だけで成立しておらず、全てを模倣することは不可能である」と酷評しています。確かに現在に至っても日本人の西洋音楽の演奏技術や作曲作品は表面的な模倣の域を出ておらず、和製ロックやポップスもリズムを伸ばして手拍子で唄うと演歌になります。その意味ではこの酷評は本質を突いていたのでしょう。
その一方でルルー大尉は琴や三味線を購入して稽古するなど日本の伝統音楽も真摯に研究しており、中国の古典音楽との対比によって割り出した音階を5線譜に変換する法則を編み出し(雅楽と西洋式演奏の「君が代」を聴き比べると完全に一致していると言えません)、明治43(1910)年には「日本の古典音楽」と言う論文を発表し、この学術的な功績でも日本の勲4等瑞宝章とフランスのレジオン・ド=ヌール勲章を贈られています。
野僧は代表作「陸軍分列行進曲」については陸上自衛隊が帝国陸軍の影響を排除していた腹いせに創設期の航空自衛隊の基礎教育を陸軍色に塗り固めていた陸軍出身の基地司令の命令で防府南基地の観閲行進で使用されていたため(当初は陸上自衛隊では採用していなかった)、曲の良し悪しとは関係なく強い嫌悪感を覚えていました。現在は「空の精鋭」になっているので単なる行進曲として聴くことができます。
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  1. 2020/07/03(金) 14:09:10|
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