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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

第6回月刊「宗教」講座・前

4月と言えば8日の灌佛会、花祭り、釋尊の降誕会でしょう。
何かが駄目になった時、「オシャカになった」と言う俗語がありますが、これは火が強くて焦がしてしまったことを、シとヒが使い分けられない江戸弁で「シが強かった」と言い、これが「4月8日だった」に変化したことに由来します。
「灌佛会」と言う呼び名は、釋尊が「甘露の雨」が降る中お生まれになったと言う伝承により、それに因んで小さな誕生佛の尊像に甘茶をかける風習がありますが、甘い味や香りがする雨が降った訳でなく、大地を潤す甘美な雨と言う意味です。
甘茶は飲むとスッとした口当たりで美味しいのですが、下剤の効果もあるそうなので飲み過ぎると大変なことになりますから気をつけて下さい。しかし、折角の伝統的な風習も最近は漢方薬で割高な甘茶をワザワザ煎じる手間を省いて紅茶で代用する寺も多いようです。それもペットボトルときますから坊主どもの手抜きの舞台裏は際限を知りません、(小庵ではその行事自体を勤めていないので「観佛会」と呼んでいます)
また「花祭り」とも言いますが、これは母のマーヤ夫人は実家で出産するための旅の途中、休憩場所で多羅葉(たらよう)の花を愛でて採ろうと手を伸ばした時にお生まれになったと言う説話によります。このため誕生佛を祀る厨子の屋根には色々な花々を飾りますが、多羅葉は餅の木科ですから花は粒状なので少しイメージが違います。
誕生佛は右手を天、左手は地を指していますが、これは釋尊が生まれた時、東西南北に七歩ずつ歩んだ後、「天上天下唯我独尊」と告げられた場面を表しています。しかし、生まれたばかりの新生児が7歩ずつ4回歩いて言葉を話すとは些か演出が過ぎるようで、佛教の非科学性=迷信を批判する例にされることもあります。
この「天上天下唯我独尊」と言う言葉を釋尊の絶対的独善性を表す言葉と曲解する向きもありますが、野僧はむしろ「天上天下に於いて、この我が命は何と尊いのだろう」と言う感慨の発露であると理解しています。
父母恩重経に「大地の土の多きが如く、この世に生を受くるもの多けれど、中にも人間と生まるるは、爪の上の土の如く稀なり。人のこの世に生まるるは、宿業を因とし、父母を縁とせり」とある通り、生命とは大勢の人々の中で一組の男女が出会い結ばれることで生じますが、それが永続的に遡られなければ継承されません。よく「由緒正しい家柄」「高貴な血統」などと言いますが、それは記録が残っているだけのことで先祖がいない人間などは存在しないのです。
つまり我々は出会った数多くの人々の中で、その気になって選んだ魅力的な男女の末裔と言うことになります。そして人がこの世に生を享け、育っていく中で受ける社会からの恩恵は、食物一つとっても、それが食卓に並ぶまでに携わる多くの人々の労力や天地の恵みを思えば、この命の持つ重みは果てしないことが理解できましょう。さらに教えを受ける師や共に学び鍛え合う友との出会いなど、生命の継承を無限の縦軸とすれば、成長していく過程の関わりは無辺の広がりなのです。
レイプや不倫の末などの望まれない命もあるでしょうが、命そのものには罪はありません。確かに奇形や先天性の病気などの生むことが躊躇われる命もありますが「それもカミの計らいとして生め」と言うのがキリスト教の教えです(最近、論議されている出生前検査もアメリカでは宗教倫理の問題になっているようです)。ちなみにカトリックではコンドームなどの避妊具の使用さえ禁じています。
かつて日本のオギノ式避妊法が「カミの意思に背かない避妊法」としてローマ法王庁の推奨を受けたこともあり、ピルの是非についての論争は結論が出ていません。
佛教はここまで教条的ではありませんが、やはり「無数の人々の中で人と人が出会い結ばれて生じたこの命、何て尊いのだろう」と生命尊重を謳っているのです。
多羅葉誕生佛
左・多羅葉の花。右・小庵の誕生佛さん。
野僧は幼い長男を2年間、1人で育てたことがありますが、アメリカ人の恩師は「子育ては人生最大、最高の喜びだ。それを独占できる君はハッピーだ」「父子家庭は今や国際的トレンドだ。君は時代の最先端を行っている」と励ましてくれました。
確かに父親ではなく両親と言う役割を果たしていた2年間は、充実した日常を過ごし、多くを学び教えられて父子共に本当に幸せでした。
しかし、それも苦労にしか見えないのが世間の常識なのでしょう。
前述の「父母恩重経」は中国で成立した経典と言われており、その内容には儒教の忠孝の教えが色濃く投影されています。
一方、釋尊は南方佛教の経典・スタニパータの中でこのように説いておられます。
「心がほだされると己が利を失う。親しみにはこの恐れがあることを観察して犀の角のようにただ独り歩め」「仲間の中におれば休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも常に人に呼び掛けられる。他人に従属しない独立自由を目指して際の角のようにただ独り歩め」実際、釋尊は出家して求道することを願っている頃に生まれた我が子に、「ラーフラ(羅喉羅)=妨げる者」と名づけ、後に王位継承者としての地位と共に家族を捨てて出家しました。
儒教の倫理に於いては、自己の立場・責任を放棄し、家族を捨てて出家することは許されざる悪業ですが、釋尊が苦悩に満ちたこの世の実相=真理を覚り、苦しみから救う道を悟り、それを証するためには全ての束縛を断絶する必要があったのです。
つまり釋尊の出家は、人が定めた倫理や道徳を超えた至高の動機によるものなのです。
儒教的な倫理、常識の中で生きる我々は、そこまで徹底できないまでも、何かを捨てることで心の平安を得られることを学ぶことはできます。
ところで最近の日本では、イエスさんの誕生日であるクリスマスばかり盛大に祝われていますが、何よりも忘れてならないのは釋尊が人として生まれ賜ったことです。
イエスさんは、母・マリアが処女懐妊して誕生したカミの子を自称しておられますが、釋尊はあくまでも人として生まれ、悩み苦しみ悶えた末に出家し、外道(異なる教え)や苦行などに迷った後、ようやく心の平安を得られたのです。
つまり佛教は、神の託宣、カミからの預言の類などではなく、ゴータマ・シッタルダ君自身の肉声なのです。
余談ながら実子のラーフラは、後に釋尊の弟子になりましたが、教えや戒律を守るばかりで中々悟りに至れずにいましたが、やがて言われることを守るのではなく戒を守っている生活こそが安心であることを覚り、「密行第一」として十大弟子に加えられました(「密行」とは陰日向なく行を保つことです)。
                                        南無文殊師利菩薩

  1. 2013/04/01(月) 09:36:57|
  2. 月刊「宗教」講座
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