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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

7月22日・壬申の乱の最終幕・瀬田川の戦い

天武天皇元(672)年の明日7月22日(太陰暦)に日本の皇室にしては珍しく皇位継承と美貌の才女を巡る確執が武力紛争に発展した壬申の乱の最終幕・瀬田川の戦いが行われました。
壬申の乱は皇室を凌ぐ権勢を揮う蘇我入鹿さんを中臣鎌足さんと協力して惨殺した中大兄皇子が皇位について天智天皇になり、大化の改新を推進したものの当時としては晩年の40歳を過ぎると治世に協力した同母弟の大海人皇子ではなく息子の大友皇子を後継者に指名したことが主因だったとされています。さらに万葉集に相聞歌が残っているように大海人皇子の想い人(妃説もある)だった額田王を天智天皇が奪ったため、政治的には協力しても感情的には対立していたと言われています。
そんな中、天智天皇が病床に伏せると大海人皇子は大友皇子を皇太子に推挙して自分は「出家する」と称して吉野に隠棲したのです。ところがこれは挙兵の準備で、この年の12月に天智天皇が死亡して24歳の大友皇子が弘文天皇として即位するとただちに近畿一円から関東で兵を募ったのです。天智天皇は果断過ぎる性格な上、選り好みが激しく蘇我一族打倒の共犯者の中臣氏を重用する一方で自分の皇位継承の邪魔になる異母兄などを謀反の冤罪で処刑し、さらに朝鮮出兵や近江大津への遷宮を強行して豪族にも多大の出費を強要していたため反発する者が多く大海人皇子の軍は朝廷軍に遜色がない4万人に膨らみ、東海道を大津に向けて進撃して関ヶ原で衝突しました。ところがこの関ヶ原の合戦では朝廷軍の内部抗争で総大将の山部王が殺害され、当然のように敗走しました。続いて大海人皇子の軍は近江と伊賀の連絡路を遮断しながら西進し、待ち構えていた朝廷軍と第2回の夜戦を行いましたが、寄せ集めの弱点が露呈して敗走したものの翌日には後備軍が参戦し、返り討ちにしたのです。
両軍が対峙した瀬田川には日本書紀に記述があるようにすでに本格的な橋が架けられており、大海人皇子の軍では「この橋を突破することが勝機である」と考えていました。ところが朝廷軍は橋の中央部の板の釘を抜き、紐で引いて落とす仕掛けを施していて橋を渡ってくるのを待っていたのです。しかし、敵が橋を渡って攻撃してこないことを怪しんだ大海人皇子の軍はカラクリに気づき、武将の1人が鎧を2重に着て降り注ぐの矢の中を橋を駆け渡って敵陣に乱入し、カラクリが使用不能になったのを確認した軍主力も橋を渡って撃破しました。この結果、弘文天皇は翌日に自ら命を断ち(歴代126名の天皇では唯一の自死者)、大海人皇子が天武天皇として即位したのです。
日本史上で壬申の乱が特異なのは天皇の軍=官軍が反乱軍=賊軍に敗北し、天皇が総大将として自死したことです。尊皇思想なる奇体な基準で日本史を評価した水戸学の「大日本史」では南北朝を3種の神器を持っていた後醍醐の南朝を正統として北朝の血統だったその後の皇室に泥を塗りましたが、この大事件については天智天皇に10巻、天武天皇には11巻を割いて詳細な業績を殊更に論述しているものの「その間隙」と言う姑息な編集手法で避けて跳ばしたようです。
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  1. 2020/07/21(火) 13:46:39|
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