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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

7月24日・最後の斬首刑が執行された。

明治政府が制定した旧刑法により死刑の方法が絞首刑に統一されることになり、それを「武士の恥辱だ」と憤慨した元武士で強盗殺人犯の巌尾竹次郎・川口国蔵両死刑囚の熱望により、刑法が施行される直前の明治14(1881)年の7月24日に江戸時代後半に8代にわたって斬首の執行職を世襲してきた山田浅右衛門家の最後の当主の弟が市ヶ谷監獄内で首を刎ねました。
8代将軍・徳川吉宗公の時代から斬首刑の執行職を世襲した山田浅右衛門家は「首切り役人」と呼ばれることもありますが、実際の身分は役人=幕臣ではなく浪人でした。その理由については諸説があり、一部の学者が唱える「幕府が死の穢れを嫌った」と言う説は平安時代なら兎も角、武家の統領である江戸幕府においては有り得ないでしょう。逆に現代風なのが山田浅右衛門家の本業は刀の試し切りのため納める刀匠と買う武家の双方から多額の礼金が入り、副業としての刀の鑑定や仲介での収入、さらに所有権を認められていた斬首した遺骸を個人での試し切りを希望する武芸者や肝臓などを薬品にする医師などが購入したので「3万石の大名並み」と言われる高収入があり、幕臣の僅かな固定給よりも自分の裁量で利益を得られる浪人を選んだと言う説です。また斬首には単なる剣術を超えた特殊な技量を要するので幕臣にすれば技量が劣る者が世襲する可能性を排除するために1回毎の個別契約にした(奉行所の同心も旗本である与力との年間契約で雇用された足軽だった)と言う非常に説得力がある説もあります。実際、山田浅右衛門家は初代から4代と7代から8代を除いて血統ではなく門弟が養子になって世襲しており、その一方で怨霊の断絶を図ったのか朝右衛門に改名した当主も2人いました。
斬首による死刑は恐怖以外の苦痛を与えることなく確実に落命させられるため世界各国で採用されていましたが(サウジアラビアなどでは現在も)、頚椎はかなりの重量がある頭部を支えているため意外に強靭で、なまくらな刀剣では容易に切断できずかえって激痛に悶絶させることが多かったため、ヨーロッパでは刀剣から斧に変わり、やがて確実に斬首できる装置としてギロチンが採用されたのです。一方、日本では世界最高の切れ味を持つ日本刀による斬首が継続されましたが、頚椎の骨は1つ1つが固く大きい上、頚髄には弾力もあるため両断しようと振り下ろした刃が止められてしまうことも珍しくなかったようです。実際、野僧が見た平岡公威さんが市ヶ谷駐屯地の東部方面総監室で割腹自死した時の記録映像では門弟の森田必勝くんが銘刀・関の孫六での介錯に2回に失敗して3度目に首が落ちていました(森田くんは剣道の有段者が介錯して1度で成功した)。また佐賀藩士・山本常朝さんが説いた武士の心得「葉隠」では「膝まで斬るつもりで刀を振り下ろさなければ首は落ちない」と体験談を語っています。
山田浅右衛門家は明治の政変で解職になって副業も失い、新たに「東京府囚獄掛斬役」として斬首を執行していましたが、弟の方が腕前に優れ大久保利通さん暗殺事件の犯人6人や本当は熱愛型の高橋伝さんも担当しました。その弟もこれを最後に監獄の書記に配置替えされて間もなく退職し、「首切り」山田浅右衛門家の歴史は終わりました。
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  1. 2020/07/24(金) 12:01:20|
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