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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

7月28日・これも嶋田人事の罪・横山一郎少将の命日

1993年の7月28日は帝国海軍切ってのアメリカ通であり、アメリカ海軍内に豊富な人脈を有していながら戦時中は嶋田繁太郎海軍大臣の人事で軍政や作戦に影響力を行使できるような要職につかずに敗戦を迎えてしまった横山一郎少将の命日です。
横山少将は明治33(1900)年に海軍士官の長男として神奈川県横須賀市で生まれましたが、父親が日露戦争の黄海海戦で戦死したため母は夫婦の故郷である高知県に帰り子供たちを育てました。やがて父の母校の高知県の海南中学校に進学し、母の希望もあって5年の時に海軍兵学校に合格して47期生として入営したのです。大正8(1919)年に115人中7位の成績で卒業すると巡洋艦、戦艦、駆逐艦に乗り組んだ後、海軍大学校に入学して昭和5(1930)年に首席で卒業しています。海軍大学校卒業後はアメリカの名門・イェール大学に研修留学し、翌年からはアメリカ駐在武官付補佐官として満州事変の勃発による対日感情の悪化を目の当たりにする一方で、大学時代のフットボールの試合で死者が出ているにも関わらず試合を続行した闘争心の強さなどを実感する体験を重ねて「アメリカには勝てない」と強く認識するようになったのです。
昭和8(1933)年に帰国すると第1次世界大戦後に締結された主要国海軍の補助艦を制限するロンドン条約の改定会議に対する腹案の作成を命ぜられ、前回の締結後は艦隊派と条約派の内部抗争を生起させた軍縮条約を逆に工業力で勝るアメリカ、イギリスの軍拡に制限する手段として利用するべく「最初は米英の8割を主張しながら比率が低下しても調印する」と言う案を上申しましたが、当時の海軍大臣は愛知県人の典型・大角岑生大将だったため旧艦隊派と旧条約派の対立を避けるため条約からの脱退方針を決定してしまいました。この頃に横山中佐は「大陸での武力侵攻による利権獲得は欧米列強との全面戦争につながる」と主にオランダ領インドネシアを念頭に置いた南方への経済進出=資源の平和的獲得を目指す研究団体を立ち上げています。
しかし、日本の東アジア、東南アジアへの武力侵攻は留まることはなく日米開戦が迫る中、アメリカ駐在武官として野村吉三郎大将の日米交渉に参加することになりました。横山大佐は野村大将と同じくハル国務長官が提示したアメリカ側の妥結条件である「合衆国及び日本国間協定の基礎概略」=「ハル・ノート」を肯定的に認識しており、合意に向けて懸命な努力を繰り広げていましたが、尊皇攘夷教の信者=山口県人の松岡洋右外務大臣に拒否したことで東條英機内閣が開戦を決定してしまいました。
昭和17年8月に帰国すると旧式巡洋艦の艦長などの閑職(主に物資輸送)に置かれましたが、一部の上層部から秘かに「早期終戦の研究」を依頼されると「敗戦以外に決着はない。日清戦争以前の国家になる」と答えています(=千島列島を除けばその通りになっています)。結局、昭和20年8月18日にマニラへ派遣されて敗戦の交渉に臨み、9月2日に戦艦・ミズーリの甲板で行われた降伏文書の調印式にも参加しました。
戦争末期6月16日のアメリカの日本語放送では横山少将を名指しして「終戦に向けての努力」を強く要望するメッセージが読み上げられたそうです。
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  1. 2020/07/27(月) 13:42:55|
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