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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1988

サッタヒープ軍港のゲートで待っていると退庁するタイ海軍の軍人たちに混じってクミコ・トミタ少佐が徒歩で出てきた。海軍の軍服は基本的に世界共通なのでアジア人のトミタ少佐は見分けにくかったが、目立つアメリカ海軍の巨大な帽章で何とか判った。
「貴方、おかえりなさい」先に見つけて駆け寄ったトミタ少佐に杉本は似合わない笑顔を見せて軽く手を挙げた。タイ海軍の軍人たちは妙に不満そうな顔で2人を中州にして素通りして行く。やはりアジア人がアメリカの軍人に期待するのはハリウッド映画のような再会シーンなのだ。杉本は安楷林には人前での抱擁、口づけなどの羞恥心と優越感、非日常性を巧み刺激する演出を多用したが、今回は自分自身が幹部自衛官だった時以上にケジメをつけている。ただし、それはトミタ少佐の間で軍服を脱いでクミコになれば女心を鷲掴みにして完全に虜にしている。
「次に貴方に会えるのは年末年始でハワイに帰省する時だと思っていたわ」2人並んで歩き始めるとトミタ少佐は無理に真顔を作りながらも口調では歓びを明らかにして歓迎の辞を口にした。
「日系人相手の週刊誌とは言え親日国のタイで起こっている政治問題には読者も関心を持っているからな。実は今回は中国語に堪能な記者が一緒に来ているんだ。それが女なんだよ。スマン」杉本の説明は雑誌記者と言う役柄の台本通りだが、余計な嫉妬を買わないため一応は女性記者の本間を同行させていることを説明した。トミタ少佐には日本人的な態度を見せるように努めているため会話も旧き好き日本風になる。この調子では過失もないのに謝罪する「スマン」に続いて、何もしてもらっていなくても「オカゲサマ」が出てきそうだ。
「その女性はサッタヒープには来てないの」「当り前だろう。何とかシングルの部屋が取れたスワナプーム空港近くのホテルに泊まっているよ。後でホテルの部屋にいるか確認の電話をさせてもらおう」これは演出ではなく杉本が本当に本間を心配している配慮だった。大学時代から男子学生なら誰もが羨む女子遍歴を重ね、入隊後も若手幹部に色目を使うWACたちを玩具にしてきた杉本にとって本間は女としての性体験があるらしいこと自体が不思議な珍獣であって、勝手に暴れ回る孫悟空のような存在なのだ。
「いただきます」2人は帰りに市内のスーパー・マーケットに寄って買ってきた食材で作った和泰(日本とタイ)折衷の手料理を前に日本式に手を合わせた。クミコは箸を付ける前にテーブル越しに缶ビールを注いだ。タイを含めた海外の一般の商店では日本のようなビールの中瓶は置いておらず今回も日本製の缶ビールだが、クミコのトミタ家では母が父のグラスにアメリカ製の小瓶のビールを注ぐのが夕食の風景だったらしい。日系3世の両親から日本の作法として学んだのかも知れない。それは杉本の実家も同様なので夫婦の形として踏襲することにした。
「インラック政権にはタイ国軍も強く反発しているのよ」互いのグラスのビールを1本分ずつ飲み終えるとクミコがトミタ少佐に戻って説明を始めた。やはり同僚を取材現場近くに残して自分の家に来ている夫が遅れを取ることがないよう日系人=日本人の妻的に気を遣っているようだ。ましてや相手が女性となれば妻としての対抗意識に火が点いても不思議はない。
「インラック政権は海軍が決定していたドイツ海軍の中古潜水艦の購入を一方的に白紙にして中国の潜水艦の導入を決定したの。一度、中国製の兵器を導入すれば後は部品の調達や修理などで言うままにならざるを得なくなるのは世界の軍事常識だから当然、海軍は拒否したわ」「補足すれば兵器に限らず中国製品に手を出せば同じ事態が待っているぞ。おまけに外交問題が発生すれば部品の供給を停止することも常套手段だ。兎に角、中国に関わっては絶対にいかんのだ」杉本の誤記が強まってトミタ少佐は姿勢を正してうなずいた。
「国軍は中国が華僑を使って国家の実権奪取を策謀していることを察知していたから2006年9月19日にクーデターを起こしてタクシンを国外追放したのよ。ところが中国資本に乗っ盗られたマスコミはタイ独自の平和的クーデターを批判する報道を執拗に続けて妹のインラックを首相に祭り上げた。今回の大規模デモは国軍がクーデターを起こせないから民族派の政治団体が代わりに決起しただけよ。貴方の雑誌にはその真実を報道して欲しいわ」「お前はアメリカ軍の軍人なのに国軍のクーデターを肯定しているのか」トミタ少佐の熱弁を聞いて杉本は率直な疑問を呈した。この時の口調にも皮肉な響きはない。
「アメリカ合衆国は自由と民主主義を世界に確立することを国是としているけどそれはキリスト教の価値観の押しつけであることは否定できないわ。韓国で勤務してアジア人のキリスト教は一神教の独善性に染まっただけなのを学んだ。佛教国には佛教国の政治手法があるのよ」確かに国民の大半が文盲だった時代のタイ国軍のクーデターは選挙に代わる政権交代の手段であった。それがデモ隊に発砲する流血の事態になったのは華僑のデモが中国に指令を受けた間接侵略であることを国軍が察知しているからだ。
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  1. 2020/07/28(火) 12:55:13|
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