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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1991

翌朝、ホテルに迎えに来た杉本は今まで見たこともない温和な微笑を浮かべていた。それを見て本間の背中には失礼な悪寒が走った。
「昨日は良い子だったな。ヨシヨシ」おまけに頭まで撫でてくる。ただし、その手つきはペットの頭を撫でる飼い主で、続いて「お手」と言いそうだ。
「ご褒美にモーニング・コーヒーをご馳走しよう。ロビーのコーヒー・サービスで良いだろう」杉本は一方的に決めると空いているロビーの隅の席に向かって歩き出し、本間も後に続いた。
「お前の好みはセルべスのトアルコトラジャだったな。あの酸味が好きなのかな」本間が丸いテーブルの向かいの席に座ると杉本は2枚目を演じる役者のような台詞を吐き続ける。こうなると悪寒の続きで発熱しそうだ。杉本は困惑して反応しない本間にもう1度微笑みかけると傍らに立ったウェイトレスにコーヒーの銘柄の指定ができるかを確認した上でトアルコトラジャを2杯注文した。丸いテーブルの向かいの席から注視すると今日の杉本は妙に満ち足りていて、よほど幸せな時間を過ごしたようだ。
「昨夜、ホテルのレストランで中共人と思われる男2人が話しているのを聞いたんですが・・・」本間は杉本が携帯電話型の盗聴電波感知器で確認するのを待って昨夜の経験を話し始めた。すると杉本の顔は口元では微笑みを造りながら眼だけが鋭くなった。それでもフロントに背を向けているので本間以外には見えない。この隙のなさが温和な微笑みを単なる偽装に思わせる。
「中国人は国土が広いから地声が大きいそうで筒抜けでした」「それはお前に聴かせようとしたんじゃあないか」「私の方が後から席に着いたので待ち伏せはできません」本間の説明は中央道から聞いた中国人の自虐的な見解だが杉本は納得しない。それでも補足説明にはうなずいた。
「奴らの話では中国共産党は1989年の天安門事件で学生たちが国家転覆を狙う暴動を起こしても西側マスコミは『民主化運動』と一方的に礼賛して、首都の治安を維持するために党が執った非常手段を徹底的に糾弾してくることを学習したのだそうです」「お前はそれを冷静に聴けたのか」「暴れたくなる衝動を抑えるのに苦労しましたが、何とか平静を装いました」杉本は本間が大学時代に愛し合った留学生が1989年6月4日の天安門事件で死んだことは知っている。ところが身元不明の中国人たちは民主化を推進した胡耀邦元総書記の急死を受けて学生を中心とする若者たちが天安門広場で行っていた追悼の集会を「国家転覆を狙う暴動」と批判し、天安門に向かう群衆に興奮した兵士が命令を受けずに銃を乱射したことから始まった犯罪的殺傷事件を「治安維持のために党が執った非常手段」と擁護していたらしい。日頃の本間の言動から言えば冷静に傍聴人になっているのはかなり大変だったことは理解できる。杉本はもう一度頭を撫でたくなったが、そこにコーヒーが運ばれてきた。
「レディ・ファーストでハニー(=妻)に先に」杉本はテーブルの手前で立ち止まったウェイトレスに英語で指示した。タイ的美人のウェイトレスは全く身映えしない本間がかなり美男子の杉本の妻になっていることに同じ女性として羨望を覚えたのか、コーヒーを置きながら顔を覗き込んだ。一方の本間は杉本が自分を紹介した「ハニー」が親しみを込めて妻を呼ぶ時に用いられることは知っているが、別の意味がないかを考えていた。
「つまり最近の中国共産党がアジア各国で華僑と学生にデモを起こさせて政府に圧力を掛けているのは天安門事件の経験を逆に利用していると言うことだな」本間が悩んでいることは無視して杉本は仕事の話題を続けた。実は杉本が本間を妻にしたのは頭を撫でる代わりのご褒美だった。
「実際、2010年のデモで国軍と治安部隊が発砲した事件では天安門と同じように国際世論の批判を扇動することに成功しました。ところが今度はタイ人市民の反華僑のデモが始まり、それが日に日に大規模になっていることに困惑しているようです。それで激論を交わし始めました」「折角のトアルコトラジャが冷めるぞ」本間の熱弁にも同調しないところが杉本らしい。それは興奮状態の説明には誇張や曲解を断定的に述べてしまう危険があるため必要な間ではある。
「それで結論的には華僑側も反デモのデモを起こして市民同士の対決で死傷者を出す。それをタイのマスコミが反華僑勢力を軍部と結託した民族主義者と批判しながら議会制民主主義に基づく現政権の正当性を世界に発信する。それを受けて各国のマスコミが反政府デモを批判する報道を展開して国際世論の圧力で反華僑勢力を一掃する。そして国王も共犯として権威を失墜させると言うシナリオを考えているようでした」「極めて毛沢東的な手法だな。お前も中国本土に入れなくても活躍の場ができて良かったな。お前まで長期滞在させる訳にはいかないが、俺は今回の事態の結末が見えるまでここに留まるつもりだ」やはり今回の杉本はどこかおかしい。本間はご馳走してもらったトアルコトラジャを飲み干すと丁寧に頭を下げた。口の中に残ったかすかな酸味が何故かいつもよりも心地好かった。
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  1. 2020/07/31(金) 11:13:48|
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