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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

8月1日・英雄?裏切り者?ソ連のウラソフ少将が刑死した。

1946年の明日8月1日にソ連軍の創設期からの戦闘に参加して抜群の軍功を上げ、卓越した指揮能力と高潔な人格によって兵士の絶大な支持を受けていながら独ソ戦で捕虜になってからはスターリン体制に反対する立場からナチス・ドイツの協力者として活動したアンドレイ・アンドレーエヴィッチ・ウラソフ少将が刑死しました。
ウラソフ少将は1900年にヨーロッパ・ロシアの中央にある城塞都市・ニジニ・ノヴゴロドで仕立屋を経営する農家の8男として生まれ、神学校に進学したものの1917年にロシア革命が勃発したため革命軍に兵隊として参加しました。その後のウクライナやクリミアなどの皇帝支持派との内戦で活躍して狙撃兵連隊長にまで昇進しています。1930年には富農の娘の女医と結婚しましたが、1936年から始まった大粛清で富農が搾取者として敵視されたため表面上は離婚しました。さらに1938年からはスターリン書記長が蒋介石総統の対日戦を支援するために送った軍事顧問団に加わり、1939年11月からはソ連のフィンランド侵攻=冬戦争に参戦しています。冬戦争でソ連軍はフィンランド軍のモッティ戦術に散々撃破されましたが、その敗因には大粛清による士気の低下と規律の弛緩があり、ウラソフ大佐は優れた指揮と統御で引き締めを図り、雪中の撤退においても部隊を維持していたと言います。これらの軍功により1940年には少将に昇任しますが、その年の6月に同盟国だったはずのナチス・ドイツが侵攻を開始すると軍団長に就任してキエフ要塞地区を担当することになりました。担当地区の守備に成功すると首都防衛戦に参加する転属を命せられてナチス・ドイツ軍の包囲を突破してモスクワに向かい、1942年2月からは陥落寸前だったレニングラード(元と今のサンクトペテルブルク)の救援の任務を与えられました。しかし、厳冬期で補給が受けられずソ連軍の戦争指導部はウラソフ少将だけを救出するために飛行機を飛ばしましたが、兵員を置き去りにすることを拒否して残り7月12日にナチス・ドイツ軍の捕虜になったのです。
捕虜としては特別収容所が用意され、ナチス・ドイツ陸軍最高司令部東方外国軍科のラインハルト・ゲーデン大佐の接触を受けたことで協力者になりました。その背景にはスターリーグラードで別れた妻から「スターリン書記長がウラソフ少将の名声・人望に嫉妬心を抱いている」と言う書簡を受け取って粛清の対象になる可能性を実感したことが理由とされています。人望の高いウラソフ少将の投降呼びかけの放送の反響は大きく、前線で戦っていたソ連兵の多くが銃を捨てて投降し、ソ連軍の作戦は崩壊の危機に瀕しました。しかし、戦況を挽回するにはすでに遅く、スラブ人を蔑視するヒトラー総統の顔色を窺う軍上層部やナチス党はウラソフ少将を軽視したため戦争末期にはナチス・ドイツから離反して投降したソ連軍将兵で編成した「ロシア解放軍」を指揮してプラハ解放に参加しましたが、ドイツ領内でアメリカ軍に投降したにも関わらず部隊ごとソ連軍に引き渡され、秘密裁判で死刑判決を受け他の同士と共に軍人としての名誉も奪う絞首刑に処されたのです。現在のロシアはスターリン体制に抵抗した「ロシア解放軍」の将兵の名誉を回復しましたが、ウラソフ少将だけは「国家への裏切り者」として放置しています。
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  1. 2020/07/31(金) 11:15:07|
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