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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1994

タイにおける大規模デモの構造が把握できたところで杉本は本間を帰すことにした。杉本はデモが夜間であることもあり、約176キロの距離があるサッタヒープのトミタ少佐のマンションを定位置にしてバンコクでは野宿で過ごすつもりでいた。ところが頭部を強打した本間を介助として部屋で仮眠することを申し出たため夕食の間に仮ベッドが運び込まれ、その後も同じ部屋に泊まることになった。
そんな最後の夜はデモの現場から少し離れた高級ホテル街で会食にした。デモが常態化して場所も固定化してきたため流石に観光客は見当たらないものの外国企業の社員の姿は散見される。このレストランも商談と接待の客で賑わっているが、タイ人と華僑は極端なくらい距離を置いた席を取っている。最早、国家は分裂しているようだ。
「今回は本当にお世話になりました」本間は着任して間もなくセントラル・パークを案内されながら心を弄ばれて以来、杉本に敵意に近い感情を抱いていた。杉本自身も常に誰も近づけようとはしない拒絶感を放っているため気持ちが通じ合うことはなかった。それが今回は勝手に動き回る本間に気を配り、窮地から救い出してくれた。しかもホテルの部屋で翌朝、目を覚ますと即座に声を掛けてきたので、杉本は仮ベッドに座ったまま一睡もしなかったようだ。
「後遺症がなくて良かったよ。貴重な中国語のエキスパートの頭がおかしくなっては職場も困るが、俺が一番困るからな」相変らず返事は嫌味な皮肉だがどこか優しさを感じる。
「次に来る時はもっと役に立てるように頑張りますから何時でも呼んで下さい」「今の流れから見て今後は相互が対決姿勢を鮮明にして遠からず全面衝突が起こるだろう。国王誕生日が12月5日だからその前に決着をつけたいタイ人の反政府陣営が先に攻撃を始めるかも知れないな」「それじゃあアメリカに帰るのは数週間って言うことですか」「誰も呼ぶとは言っていないぞ」杉本の返事がオチになって本間は明るく笑った。そこにタイ式のコース料理が運ばれてきた。アメリカではココナッツ・ミルクで作るゲーンをタイ・カレーと呼んでいるがインドと同じようにタイにも「カレー」と呼ぶ料理は存在しない(観光客用の呼称は別)。今回はアメリカではお目にかかれない本場料理を選んで注文した。
「杉本さんは1週間も隣りに寝ていたのに私を抱かなかったのは何故ですか。やっぱり女としての魅力がありませんか」先ずは前菜のトーッマン・プラー(タイ風薩摩揚げ)を箸で口に運んだところで本間が突拍子もない質問をした。杉本にとって本間は生態不明の珍獣に過ぎず、隣りに寝ていても手を出すような獣姦の趣味はない。
「俺も他の野郎共と同じく妻帯者になったつもりなんだ。いきなり浮気できるはずがないだろう」喉に詰まりそうになったトーッマン・プラーを呑み込んだ杉本は少し怒ったような顔で答えた。すると本間はスプーンでトムカーガイ(鶏肉をココナッツ・ミルクで煮込んだタイ風シチュー)を口にした後、真顔で話を続けた。やはり杉本にとっては生態不明の珍獣だ。
「杉本さんの奥さんも綺麗な方だから当然ですよね」男前のスポーツマンだった杉本は大学でも女学生の間で人気が高く、彼女を乗り替える時、同じ台詞を聞いたことがある。しかし、ここは本間の目を覚ますために痛みを与えるような皮肉で答えた。
「お前を気絶させた奴らはその場でレイプしようとしたんだ。と言うことはお前を見て性的に興奮したんだろう。お前にだって女の魅力はあるんだから自信を持て」これは慰めにも励ましにもなっていない。逆に心に受けた傷に塩を塗り込んで擦ったようなものだ。並みの女性であれば傷ついて席を立っても不思議はない。
「私は何をされていましたか。身体に触れられていましたか」「いや、Tシャツを押し上げられてGパンのチャックを下げられたところまでだ。下着は外されていなかったぞ。見事に割れた腹筋は見えていたがな」杉本の説明を聞いて本間は呆れるほど黙々とタイ料理を頬張り始めた。酸味がある春雨サラダのヤムウンセン、川エビやモヤシが入った炒め米麺のバッタイ、鶏肉のカレー風味の混ぜご飯のカーオ・モク・ガイ、タイ風生ソーセージのネームの皿が空になった。残りはデザートの米寒天をココナッツ・ミルクで和えたロッチョン・ナーム・ガティだけだ。
「折角のディナーが妬け喰いでは困るな。俺はお前にも女の魅力があるって言ったんだから怒る必要はないだろう」女を口説き、利用する時には心がとろけてしまうような熱く甘い言葉を口にする杉本も本間が相手では何故か挑発的な台詞の連射になってしまう。
「そんなに一気喰いして明日飛行機の中で吐くなよ。帰りは単独だから俺は背中をさすってやれないぞ」この台詞で本間はタクシーの中で杉本に肩を抱かれていたことを思い出した。あの時、意識を失いながら本間は中央道にすがりつこうとしても手が届かず、必死になって追いかける夢を見ていた。追いついて抱き締められた時に目を覚ますと杉本の腕の中だった。
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  1. 2020/08/03(月) 13:30:19|
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