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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1996

「次のメールは年配の女性のようですね。旭川市内にお住まいのジャネット・珍さんです」このラジオ・ネームは1972年の札幌オリンピックで「銀板の妖精」と呼ばれたジャネット・リンをもじっているが、確認したメールの内容から言って「珍」でも中国系ではなさそうだ。
「雪うさぎさん、今晩は」「はい、今晩は」「最近、この番組では私たち世代には懐かしいフォークやニュー・ミュージックを取り上げてくれるので大ファンになってしまいました」「どうも私が結婚する前に『年下の男の子』のリクエストを受けてキャンディーズ・シリーズになったのが切っ掛けだったような気がしています」その「年下の男の子」は眠りかけた娘を抱いてガラス越しにこちらを見ている。
「雪うさぎさんは30歳代なのにフォークに詳しくて感心してしまいます」「そうですね。ウチの義父はマニアックなフォーク・ソング・ファンなので旦那さまも若い癖に詳しくて、私もかなり染められました」説明しながら照子が顔を向けると森田予備3曹は自慢そうに笑いかけた。どうやら妻の仕事の手助けをしたつもりらしい。
「そこで雪がない初体験の11月になっていることからのリクエストです。紙ふうせんの『冬が来る前に』をお願いします」「なるほど。旭川っ子の感覚では今年はまだ秋なのかも知れませんね。それでは紙ふうせんで『冬が来る前に』をどうぞ」照子が視線で合図を送るとアシスタントがレコードを掛けた。今回も針が溝を擦る雑音が始まった。
「坂の細い道を 夏の雨に打たれ 言葉探し続けて 別れた二人・・・冬が来る前に もう一度あの人と 巡り合いたい 冬が来る前に もう一度あの人と 巡り会いたい・・・」男女デュエットのコーラスを聴いて森田予備3曹は紙ふうせんは母が好きなダ・カーポと同じグループなのかと思ったが、微妙に声質が違う。そこでアシスタントが机の上に置いているレコードのジャケットを見ると女性の顔が全く違った。ダ・カーポの久保田広子は平らな土台に控え目な部品の醤油顔だったはずだが、紙ふうせんの女性は目鼻立ちがハッキリした派手な顔立ちだ。すると照子が解説を始めた。
「紙ふうせんはフォーク・グループの赤い鳥が解散して、高校の同級生同士で結婚していた平山泰代さんと後藤悦治郎さんが結成した夫婦ディオです。赤い鳥の頃の『翼をください』は学校の音楽で習いませんでしたか。ウチでは旦那さまが娘を抱きながら『竹田の子守唄』を唄っています。『赤い花白い花』も春になると口ずさんでいますから、きっと娘も憶えてくれるでしょう」ここまでで今夜の放送は終わった。アシスタントがエンディングの柱時計の「コチコチコチ」と言う機械音のCDを流すとそれに合わせて照子が別れの言葉を述べた。
「それでは今夜の『貴方だけ今晩は』は終わります。また会える時まで・・・待っててね」それに合わせて時刻を告げる鐘が響く。それを聴きながら日和は腕の中で熟睡していた。
「そう言えば安川候補生も11月になっても夏バテから立ち直れないで困っているって言ってたな」収録と反省会を終えた照子と日和を乗せて帰宅する車内で森田予備3曹は今夜の「暖冬」の話題から最近届いたメールの内容を説明した。安川候補生は9月上旬に福岡県久留米市の前川原駐屯地にある幹部候補生学校に入校したのだが、すでに初秋に入っていた北海道の名寄から残暑とは言わない夏本番だった九州では気温差が大きく、部内課程では入校早々から訓練が本格化するため初めて夏バテを経験したらしい。
「あの安川候補生が『長距離走が辛い』って言ってたぞ」「あの安川さんが・・・信じられない」森田予備3曹の補足説明に日和を抱き直していた照子も驚いたように返事をした。
「だって安川さんは貴方がバイアスロンの強化訓練に入れなくなった代わりに復帰した選手でしょう。長距離走は得意なはずじゃない」「バイアスロンは冬場が本番だから、高温多湿に対する耐久力とは逆に零下30度の中で筋肉を活性化させる持久力だけどな」森田予備3曹の説明は専門的になったが照子は聞き慣れているので理解はできた。安川3曹(当時)は抜群の競技センスを持つ森田曹侯補士(同前)が退職させられることになり、幹部候補生の受験前にバイアスロンの強化訓練に入ることになった。そのため他の受験者が課業時間も猛勉強に励んでいる中、長距離走で過ごして学科試験に失敗してしまった。
「幹部の昇任は前川原の成績が最後までつきまとうそうだから安川候補生も無理を承知で頑張っているそうだ」「奥さんも心配でしょうに」照子も安川候補生の妻の聡美とは面識がある。若く聡明で一途な可愛らしい女性だが、幹部候補生学校に紹介された駐屯地に近いアパートで独り暮らしをしているはずだ。週末に帰宅する安川候補生の疲れ切った姿を見れば心配を超えて不安になるのではないか。
「奥さんは久留米でもレストランのアルバイトを始めたけど駐屯地の外柵で応援してから出勤するんだって」照子は自分とは別次元の「自衛官の妻」の姿を想像して複雑な心境になった。
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  1. 2020/08/05(水) 12:47:27|
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