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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

8月15日・埼玉県熊谷市が撃ち止めに空襲された。

昭和20(1945)年の明日8月15日の午前0時23分から1時39分にかけて埼玉県熊谷市と周辺地域でアメリカ陸軍第20航空軍団の空襲が撃ち止めになりました。
第2次世界大戦、中でも対日戦争においてアメリカ陸軍航空軍は第1次世界大戦以降のヨーロッパ各国に倣いアメリカ空軍となるため最大限の戦果を挙げることに躍起になっていました。それには陸軍による地上戦、海軍の艦隊戦と艦載機による攻撃を超える損害を与える=より多くの日本人を殺戮する必要があり、日本が降伏する目前まで空襲を続けたのです。実際、日本で鈴木貫太郎内閣が8月10日に異例の御前会議を招集して昭和の陛下が「ポツダム宣言を受諾する」との聖断を下されたことが情報としてアメリカ政府に伝わっていたにも関わらず第20航空軍団司令官は8月13日に山口県の光海軍工廠と麻里布操車場(岩国市)、大阪府の砲兵工廠、秋田県の日本石油製油所、そして群馬県伊勢崎市と埼玉県熊谷市を最大限の航空戦力で攻撃することを命じています。
この時点の熊谷市は陸軍の熊谷航空学校や第19特設警備工兵隊、陸軍通信隊などの軍の施設の他にも中島飛行機の主要部品工場やその子会社の熊谷航空工業、理研工業、小泉製作所、大宮製作所などが製造を継続していて軍需工業の中核都市と断定されていました。通常、工場を爆撃する場合には建物と工作機械を破壊するため爆弾を投下するのですが、熊谷市では市街地を延焼させるための焼夷弾が使用されていて、これが最後とばかりに工場だけでなく従業員の住宅まで消滅させる計画だったことが伺えます。
しかし、8月14日になって日本のラジオ放送がポツダム宣言を受諾することを報じたためアメリカ政府は戦闘の中止、事実上の停戦を決定したのですが、陸軍太平洋方面航空軍司令官は最後の最後まで日本から戦果を絞り取るべく「22時までに公式文書による受諾通知がなければ攻撃を開始する」と強硬に主張し、その期限よりも6時間早い16時52分から気象観測機(コールサインはダンボ)と先発隊がグアム島を離陸し、それにグアム島とテニアン島の本隊も続いて18時16分までに89機(4機は離陸に失敗した)が太平洋を北上したのです。爆撃機の編隊は千葉県銚子市にある陸軍の高射砲陣地を避けて鹿島灘方向から関東平野に侵入し、利根川を辿って熊谷市上空に達しました。そうして午前0時23分の初弾投下後は編隊を解いて各機が勝手な爆撃を開始し、400ポンド爆弾6発、焼夷弾3種類8049発を投下して熊谷市内の74パーセントを焼失させ、266人が死亡、約3000人が負傷する損害を出しました。日本の敗戦後、アメリカ軍はこの空襲を「日本の降伏を早めるために実施した」と説明していますが、編隊が飛行中に日本政府からワシントンンにポツダム宣言の受諾を伝える公式文書が伝達され、全アメリカ軍に停戦発令されたのですが、第20航空軍団から作戦中止を命じる「UTAH」の通信略号が発信されることはありませんでした。
8月15日には多くの日本人は焼け跡で正午からの玉音放送を聞きましたが、熊谷市民は瓦礫の山から死傷者を収容しながら明け方に鎮火したばかりの残り火と立ち上る煙の中で敗戦を実感させられたのです。
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  1. 2020/08/14(金) 13:37:09|
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