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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

8月22日・航空自衛隊には「人罪」だった中島正空将補の命日

1996年の明日8月22日は第2次世界大戦中はフィリピンで神風(シンプー)特別攻撃隊の部下を送り出すだけの行隊長を務め、非人間的な妄言で死に逝く者を傷つけながら敗戦後は「稀代のスタンドプレイヤー」源田実大佐の腰巾着として航空自衛隊に入り、特攻精神を持ち込んだ「人罪」中島正中佐=空将補の命日です。
中島少佐(当時)の妄言については生き残った特攻隊員たちが敗戦後に出版した回想録などで多数紹介されていますが、例えば編隊長に「レイテ湾の桟橋を目標にせよ」と命じ、編隊長が「せめて輸送船にして下さい」と要望すると「文句を言うな。特攻の目的は戦果ではなく死ぬことにあるのだ」と言い放ったそうです。この時、編隊長は「桟橋に停泊している輸送船でも艦船であれば」と無理に自分を納得させようとしたのかも知れませんが、それに気づく中島少佐ではなかったようです。また非公認の最初の特攻である10月21日の大和隊の久納好孚中尉の出撃に際しては偵察機から「敵艦隊発見」の通報が入り、整備員たちは250キロ爆弾を装着した零式艦上戦闘機に燃料を充填して出撃準備を整えていたのですが、中島少佐が意味のない精神訓話を長々と続けている間に敵機の襲撃を受け、残った戦闘機に爆弾を装着し直して水杯や見送りもなく出撃したのです。現地では中島少佐のあまりにも非人間的な言動に怒り心頭に達して目の前で拳銃を腰に提げたまま床に全弾を発射した搭乗員もいたそうですが、逆にその非人間的な妄言を吐いている中島少佐は純真そのものの目をして穏やかな微笑みを浮かべ、宗教の教祖が神の啓示を告げているような顔をしていたそうです。熊本県人的な彫りの深い男前ではありました。
そんな中島中佐(敗戦時)は敗戦後、源田実元大佐が航空自衛隊に割り込むと真珠湾とミッドウェイ海戦で航空参謀として致命的な失策を重ねながら恥じることがない源田を嫌った海軍航空隊出身者たちが揃って海上自衛隊航空隊に入ったため、四面楚歌になった源田元大佐が腰巾着の中島元中佐を引き込んで益々海軍航空隊出身者を減らしたのです。
中島元中佐は航空自衛隊では浜松北基地の第1航空団司令を務めたため野僧はここでの妄言の数々も直接聞いた人たちから教えられましたが、当時のF―86F旭光は単座式しかなかったので飛行学生=初心者は地上でランナップ(エンジンの始動)からタクシング(誘導路の走行)、滑走路での離陸滑空加速走行などを経てから単独で飛行していて墜落事故が日常化していました。すると中島空将補は「年10名の殉職は航空自衛隊に課せられたノルマだ」「死んだ特攻隊員の人数になるまで航空自衛隊のパイロットの殉職は止まらない」と明言し、さらに当時は安全手順が未確立だったため整備員の事故による殉職も頻発していましたが、それに対しても「パイロットが命を賭けて飛んでいるのだから整備員が仕事に命を賭けるのは当然だ」と訓示したそうです。
この妄言は雫石の衝突事故で脱出した自衛官が生き残ったことを非難されて以降、飛行不能に陥っても脱出が許されなかったパイロットたちが自分を納得させる金言として申し送られ、事故が起きる度に引用されていましたが、平成に入って航空幕僚長・石塚勲空将が地上の安全確認後の脱出を許可してからは聞かなくなりました。
  1. 2020/08/21(金) 11:52:48|
  2. 自衛隊史
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コメント

中島正の墓所が知りたい

やはり、命日には盛大に事実を知って頂きたいですね。
  1. 2024/02/06(火) 02:02:49 |
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