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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

第93回月刊「宗教」講座・短いお経シリーズ第9弾「念佛和讃」

駅前での立ち托鉢などでこの「念佛和讃」を唱えると「妹や娘を若くして亡くした」と言う年配の女性たちが涙ぐみながら喜捨して下さいます。
「念佛和讃(雑炊宗)」=「帰命頂禮黒谷の圓光大師の教えには、人間僅か五十年、花に譬へば朝顔の、露より脆き身を持ちて、何故に後生を願はぬぞ、假令浮世に長らへて、楽しむ心に暮すとも、老いも若きも妻も子も遅れ先立つ世の慣い、花も紅葉も一盛り、思へば我等も一盛り、十や十五の蕾花、十九や二十の花盛り、所帯盛りの人々も、今宵枕を傾けて、直に頓死をするも有り、朝なに笑ひし稚児も、暮には煙となるも有り、憐れ儚き我等かな、娑婆は日に日に遠ざかり、死するは年々近づきて、今日は他人の葬禮を送りし我身も明日は又、仇野鳥辺の客となる、明日は我身も図られず、是を思へば自ら念佛唱えて願うべし」
この和讃は浄土宗と真言宗で用いられていますが、それぞれ題名と文章が違い、それを野僧が合わせて再構成したものです。
「黒谷和讃(浄土宗)」=「帰命頂禮黒谷の圓光大師の教えには、人間僅か五十年、花に譬へば朝顔の、露より脆き身を持ちて、何故に後生を願はぬぞ、假令(たとえ)浮世に長らへて、楽しむ心に暮すとも、老いも若きも妻も子も遅れ先立つ世の慣(なら)い、花も紅葉も一盛り、思へば我等も一盛り、十や十五の蕾花、十九や二十(はたち)の花盛り、所帯盛りの人々も、今宵枕を傾けて、直(すぐ)に頓死をするも有り、朝なに笑ひし稚児(おさなご)も、暮には煙となるも有り、憐れ儚き我等かな、娑婆は日に日に遠ざかり、死するは年々近づきて、今日は他人の葬禮し、明日は我身も図(はか)られず、是を思へば皆人(もろびと)よ、親兄弟も夫婦とも、先立つ人の追善に、念佛唱へて信ずべし、あら有難たや阿弥陀佛、南無阿弥陀佛」
「無常和讃(真言宗)」=「帰命頂禮黒谷の圓光大師の教えには、人間僅か五十年、花に譬えば朝顔の、露より脆き身を持ちて、何故に後生を願わんぞ、假令(たとい)浮世に長らえて、楽しみ心に暮すとも、老いも若きも妻も子も後れ先立つ世の習い、花も紅葉も一盛り、二十(はたち)三十(みそじ)の人々も、今夜枕を傾けて直(ただち)に頓死をするもあり、朝だに笑いし稚児(おさなご)も、暮に煙と成るも有り、今日は他人の葬禮を送りし我身も明日は又、仇野(あだしの)鳥辺(とりべ)の客となる、之を思えば自(おのずか)ら念佛唱えて願うべし」
建暦2(1212)年に法然上人が遷淨すると「浄土宗などは法然個人の人気で信者が集まっていただけ。遠からず消えてなくなる」と高を括っていた比叡山は15年経過しても優れた遺弟たちがさらに信者を増やし、確実に根づいていることに危機感を抱き、嘉禄3(1227)年に僧兵を派遣して現在の知恩院の上人御廟所に在った墓所を襲撃させる暴挙に出ました。この時、墓所は破壊されたものの遺骸を掘り起こされることは免れ、六波羅探題の在家弟子たちが警護して洛中の弟子の寺を移動した後、17回忌にあたる安貞2(1228)年1月25日に荼毘に伏し、高弟たちが分骨しました。そして京都内のみに埋葬することに不安を抱いた弟子によって高野山奥の院にも墓所が設けられたのです。このため念佛門の浄土宗と密教の高野山真言宗には同じ内容の和讃が幾つかあり、これもその1つです。
このうち「黒谷」は比叡山を下りた法然坊源空上人が庵を結び都人に念佛を説いた現在は金戒光明寺がある京都府左京区の地名です。「圓光大師」は浄土宗の元祖と言うよりも我が国の念佛門の創始者である法然坊源空上人のことです。浄土宗は徳川将軍家の宗旨だったため江戸時代には極めて厚遇されていて、法然上人には圓光大師(東山・以下贈号した天皇)の他にも東漸大師(中御門)、慧成大師(桃園)、弘覚大師(光格)、慈教大師(孝明)、さらに明照大師(明治)と最多の大師号が贈られています。つまりこの和讃は東山天皇が即位した江戸幕府が成立して72年後の延宝3(1675)年以降に作られたことが判ります。「人間僅か五十年」のところで通りがかった人の中には(年配の男性が多い)「これは織田信長が舞っていたお経か」と訊いてくることがありますが、あちらは幸若が平家物語を元に作った謡曲「敦盛」の年若い敦盛を討った熊谷次郎直実(=その後、法然上人の弟子になって蓮生と名乗った)が世の無常を嘆いた後半の台詞の一節「人間五十年 下天のうちをくらぶれば まこと夢幻の如くなり 一たび生をえて 滅せぬ者のあるべきか」です。「仇野、鳥辺」は江戸時代まで京都で出た遺体を埋葬していた場所です(実際は風葬と称して捨てていた)。このうち「仇野(あだしの)」は京都市右京区嵯峨の小倉山東麓一帯で、法然上人はここに弘法大師が建立し、千体の石地蔵を祀った東漸院念佛寺で常住念佛を行じたのです。「鳥辺」は清水寺から阿弥陀ヶ峰にかけての一帯で、現在も山を埋め尽くすように墓地が建ち並んでいます。なお、地名の鳥辺から遺骸を木に吊るして鳥に食べさせる鳥葬が行われていたとする伝承もあります。実はもう一カ所、京都市北区船岡山一帯の蓮台野も同じく遺骸の埋葬地だったのですが、文字数の関係なのか入っていません。「花に譬えば朝顔の、露より脆き身を持ちて」「花も紅葉も一盛り、思へば我らも一盛り」「十や十五の蕾花」{十九や二十の花盛り}「今宵枕を傾けて、直に頓死をするもあり」「朝なに笑いし稚児も、暮には煙となるもあり」人の生命の儚さを花や自然現象、日々の営みを用いて説いている詩的美文は感動的で、散った花に若くして逝った肉親を重ねて涙する女性がいても不思議はありません。これはキリスト教の聖書の日本語訳が「死」「滅」「殺」などの明確な単語で人の命が奪われる様を描いているのとは対照的ですが、佛教の経典でも「死」「滅」「亡」「逝」「去」「寂」「卒」などの漢字に幅が加わっているだけなので、邦訳と言うよりも和文だけの表現方法であり、おそらく奈良時代以降に日本の和歌が発展していく中で追悼や悲哀の心情を詠む表現方法として紬ぎ出された造語でしょう。この詩的表現に軍人・自衛官の愛唱歌「同期の桜」の「咲いた花なら散るのは覚悟」も含めるべきかは判断を避けたいと思います。自衛隊では多くの同期、同僚を亡くし過ぎました。
現在、野僧は重度身体障害者なので托鉢には出られなくなりましたが、小庵での有縁者の法要でこの和讃を勤めることがあります。ただし、享年10歳から20歳までの女子専用にしているため、19歳で亡くなった高校の生徒会の森野内閣で会計を務めてくれた後輩と心臓の持病を抱えながら精一杯生きて13歳で亡くなったオーストラリア在住だった知人の孫の2人だけです。南無阿弥陀佛
93・法然坊源空上人の墓所(高野山奥の院)高野山奥の院の法然坊源空上人の墓所
16a・法然坊源空上人法然坊源空上人
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  1. 2020/09/01(火) 13:45:42|
  2. 月刊「宗教」講座
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