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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

9月4日・ミスター参謀・瀬島龍三中佐の命日

2007年の明日9月4日は戦時下で参謀本部=大本営(本来は「大元帥=天皇の御座所」と言う意味)の参謀として活躍し、敗戦後は経済界で陸軍的手法を発揮し、晩年は参謀指導式に外部から政界を動かした瀬島龍三中佐の命日です。
野僧が幹部学校に入校した時、瀬島龍三元中佐の講話が行われ終了後に質問が許されたため「玉砕と称する守備隊の全滅としては昭和18(1943)年1月のニューギニア・ブナの海軍設営隊の方が先なのに何故、同年5月のアッツ島が1号とされたのか」と質問しました。すると瀬島中佐はそれまでの立て板に水のような弁舌を一転させ「ブナねェ、ブナ、ブナ・・・」と独り言を始めたため、私の後ろに座っていた戦史の教官が「お前は俺たちが教えている戦史が間違っていると言いたいのか」と苦言を口にしながら「こちらで調べて説明しておきます」と引き取ってしまいました(本当は続きが山ほどあった)。
瀬島中佐は明治44(1911)年に現在の富山県小矢部市の農家で村長を務める陸軍後備役少尉の3男として生まれ、大正13(1924)年に北陸で行われた陸軍大演習を見学したことで陸軍軍人を志すようになり、地元の旧制中学校に在学中だったにも関わらず陸軍中央幼年学校を受験し、合格するとその後は陸軍士官学校を次席、陸軍大学校を首席で卒業して参謀勤務まっしぐらの軍歴が始まりました。
最初は昭和14(1939)年1月から満州の関東軍隷下の第4師団の参謀で5月には同じく第5軍、そして11月には帰国して参謀本部のソ連担当の参謀になっています。東南アジアの植民地解放を表看板に第2次世界大戦に参戦する頃には南東太平洋方面作戦の担当になりますが、昭和16(1941)年1月8日に日本陸軍がマレー半島上陸作戦で第2次世界大戦に参戦したことを宣言した暗号文「ヒノデハヤマガタ」を起案したのは瀬島参謀だったと言われています。しかし、帝国陸軍は中国戦線の関東軍に限らず現地軍の独断専行が横行していて参謀本部は現地からの要望を調整して兵力を振り分けることしかできず、やがて嫁の父親である松尾伝蔵大佐が2・26事件で命を賭して守った岡田啓介大将=元首相の和平工作に協力するようになりました(この頃には連合艦隊の派遣参謀も兼務していて海軍人脈を構築していた)。
昭和20(1945)年7月に満州の関東軍司令部に転属すると8月9日にソ連が侵攻を開始し、8月15日の降伏命令を受けてソ連軍の捕虜になり、シベリアへ抑留されました。抑留中には東京裁判のソ連側証人として帰国しましたが、「天皇の戦争責任を断罪せよ」「ソ連の主張を証明しろ」との指示を拒否したため武力紛争関係法で士官は免除される肉体労働を強制された上、昭和31(1956)年まで抑留され続けたのです。
帰国して2年目に伊藤忠商事に入社して商売人ではなく陸軍参謀的な会社経営方法を伝授するとそれが経営者の間で評判になって経済界で頭角を現し、昭和53(1978)年には会長に就任して最高司令官として経営に当たることになりました。そして昭和56(1981)年からは中曽根康弘内閣の第2臨時行政調査会で土光敏夫会長の参謀になり、最晩年まで各方面で活躍してこの日に95歳で燃え尽きました。
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  1. 2020/09/03(木) 14:09:35|
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