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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月6日・大田南畝の命日

1825(文政6)年の明日4月6日(太陰暦)は江戸時代の狂歌師・狂詩師・洒落本作家である大田南畝・蜀山人先生の命日です(この他にも「安本丹親玉(あんぽんたんおやだま)」「藤偏木安傑(とうへんぼくあんけつ)」「四方赤良(よものあから)」などの筆名=ペンネームもありました)。
南畝先生は日本のギャグの元祖のような人で、実際、「世の中に 酒と女は 仇なり どうぞ仇に 巡り合いたい」や「早わらび にぎりこぶしを ふりあげて 山の横面 はる風ぞふく(はるを春と張り倒すにかけている)」などの現代でも落語のマクラ(出だし)に使われている狂歌も先生の作です。
大田南畝、本名・直次郎さんは七十俵五人扶持(ぶち)と言う貧乏御家人の家に生まれましたが、父親は「起きていれば腹が減るから」と「早寝遅起き」を家訓していたと言いますから、世の中を茶化した風情はそんな家で養われたのかも知れません。
直次郎さんは幼い頃から秀才であったもののそれ以上にギャグの才に秀いで、田沼意次の庶民も自由を謳歌できた時代に平賀源内と出会って、序文まで書いてもらい「毛唐珍奮翰(もうとうちんぷんかん)」のペンネームで「寝惚先生文集(ねぼけせんせいぶんしゅう)」を出版するや大ベストセラーになり、たちまち狂歌師の第一人者になりました。ところが田沼意次が失脚し、松平定信が寛政の改革を始めると、重箱の隅までほじくり返すような取り締まりや武士への偏狭な理想を押し付けなどに嫌気がさした者による落首が世間を騒がせました。
「孫の手が 痒い所に 届きかね 足の裏まで かきさがすなり」これは「孫の手で背中をかこうと思っているのに足の裏をかかれているようだ」と改革が的外れであることを揶揄したものですが、この時代、政治批判は御法度であり、場合によっては斬首もある重罪でした。それは大名であっても同様で、尾張藩主・徳川宗春は「暴れん坊将軍」吉宗の享保の改革の質素倹約令に反対して自領の名古屋で遊興三昧の生活を送ったことを咎められ隠居謹慎し、死後は墓石に金網を掛けられ縛られるほどの仕打ちを受けました。
またこのような落首もありました。
「白河の 清き流れに 魚すまず 濁れる田沼 今は恋しき」こちらは松平定信が白河藩主であることに掛けて、その理想主義を息苦しく感じ、ほとんど禁制は出されず自由を満喫できた田沼意次の治世を懐かしむ庶民の声でしょう。
そして問題になったのが、この一首でした。
「世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶといひて 夜も寝られず」松平定信は「文武二道の修錬」を幕臣だけでなく各藩にも徹底するよう達していたのですが、問題はこの歌が、庶民ではなく武士の作だと言うことでした。
この頃には定信失脚後に花開いた化政文化の萌芽を感じさせる庶民の教養の高まりがあり、前の2作なら誰の作とも言えませんが、「文武二道」への批判となれば武士以外には考えられない。つまり幕政に対する批判を直参がしたことになります。この落首もあまりに出来が秀逸で素人の作とは思えず、武家の狂歌師として直次郎さんが疑われたのも無理からぬ話ではありました。
そんな訳で直次郎さんは狂歌師を止めたのですが、それでも世間の目はますます厳しくなり、起死回生の一手として人材登用の試験である学問吟味を受験し、御目見得(おめみえ)以下の部で首席を獲りました。しかし、2年後に与えられた仕事は勘定方(百俵に加増)で江戸城内の竹橋の書庫で古い帳簿を整理する仕事でした。そこで「五月雨の 日も竹橋の 反古しらべ 今日もふるちょう 明日もふるちょう(「ふるちょう」は「降るちょう=降っている」と「古帳」の洒落)と言う狂歌を作ったのがバレて、当時からお笑いの本場であった大阪へ左遷され、ここで蜀山人と名乗り、大活躍することになったのです。
蜀山人の辞世はこんなものでした。
「今までは 他人のことかと 思うたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」流石!
  1. 2013/04/05(金) 09:17:17|
  2. 日記(暦)
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