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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

9月7日=回天の訓練中に黒木博司大尉と樋口孝大尉が殉職した。

昭和19(1944)年の明日9月7日に人間魚雷・回天の訓練中の事故でこの凶器を開発した主犯である黒木博司大尉と操縦していた樋口孝大尉が殉職しました。
黒木大尉は大正10(1921)年に現在の岐阜県下呂市で生まれましたが、日本国民が重税と圧政、兵役の苦しみを忘れるように浮かれて暮らした「明治」と言う時代が終わって10年以上が経過していても両親は大正デモクラシーではなく幕末の尊皇攘夷の狂気を息子に教え込み、中でも母親は「100人に笑われても1人の正しい人に誉められるように、100人に誉められても1人の正しい人に笑われないように」と独り善がりに陥るような考え方を吹き込んだそうです。この洗脳教育が黒木大尉を独善的で時代錯誤な観念論に走らせ、回天と言う凶器で多くの有為な人材を殺す大悪事を犯させました。
黒木大尉は昭和13(1938)年に旧制岐阜中学校を卒業すると技術士官を養成する海軍機関学校に入営し、3年生の8月に戦前・戦中・戦後に架空の物語に過ぎない日本の神話を事実とする皇国史観を吹聴した神主の学者・平泉澄の面識を得たことで親から吹き込まれた狂気が病的レベルにまで悪化し、その後の地獄へ一直線の人生を決定づけました。実際、同時期に開始されたベトナム進駐に際して妹に「3年以内に日米は開戦し、そうなれば日論戦争以上に多くの決死隊が必要になる。私は広瀬中佐を模範として殉ずる覚悟だ」と所信を語っていますから戦局の悪化で追い詰められて自爆戦法に納得した他の特別攻撃隊員たちとは気の狂い方が違います(桜花を発案した大田正一少尉並み)。
昭和15(1940)年11月に海軍機関学校を卒業すると戦艦・山城に配属されますが、大正6(1917)年に竣工した旧式艦だったため翌年12月8日からの第2次世界大戦では内地泊が続き、唯一の出撃となったミッドウェイ海戦でも南雲機動部隊=航空母艦による空襲で基地機能を破壊した後に占領する主力艦隊だったので航空母艦が壊滅して撤退したため戦歴にはなりませんでした。
このミッドウェイ沖まで往復して燃料を浪費しただけの屈辱的経験は黒木大尉の「広瀬式に死にたい病」を悪化させ、次に憧れた「真珠湾の9軍神」に続くべく血書の志願書を送って特殊潜航艇・甲標的の搭乗員に転換すると、そこからは甲標的の改良から人間魚雷の開発へと「死にたい病」が重篤化していきました。
事故は9月6日の午前中に訓練した回天開発の共犯者である仁科関男中尉と上別府宣紀大尉が「天候の悪化」を報告したため中止になったのですが、黒木大尉と樋口大尉が「(回天が)これくらいの波で使えないなら実戦の役には立たない」と訓練を強行して17時40分に発動、18時10分に波を受けて沈底、懸命な捜索も悪天候に阻まれて発見できず7日の6時10分で記録が途絶え、窒息死したようです。樋口大尉は海軍兵学校の同期の関行男大尉が10月25日に神風(シンプー)特別攻撃隊1号になる48日前でした。
余談ながら岐阜県下呂市では敗戦から19年が経過して東京オリンピックが開催された昭和39(1964)年になって楠公神社を創建して黒木大尉など回天での戦死者・殉職者138名を合祀しました。どこまでも時代錯誤な土地柄なようです。
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  1. 2020/09/06(日) 12:44:09|
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