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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月29日・奥州王・藤原秀衡の命日

文治3(1187)年の明日10月29日(太陰暦)は奥州王・藤原秀衡さまの命日です。
奥州藤原氏は京都で権勢を奮っていた藤原家の系譜であるかは不明ですが、その遠戚が関東に下って藤原姓を名乗り、多賀城の鎮守府の官人(高位の役人)として陸奥国に赴いて定住した可能性が高い、つまり藤原姓を名乗っても文句を言われない程度の血縁だったと推察されています。
秀衡さまは奥州藤原氏の3代目で初代の清衡さまは多賀城の官人で現在の宮城県南部の亘理で荘園を経営していた藤原経清さんと陸奥国の事実上の覇王だった安倍頼時さま(安倍晋三首相の先祖)の娘の間に生まれたと言われています。ところが陸奥国で産出する金などを狙った京都の宮中が源頼義・義家さん父子を派遣して安倍一族を滅ぼしたのが前九年の役です。父の経清さんは安倍一族の武将として斬首されたので清衡さまも母親と共に殺されるところでしたが安倍一族に代わって陸奥国も治めることになった出羽国の豪族・清原武則さんの長男が美貌に惹かれて妻にしたため清衡さまは養子になりました。しかし、清原氏の義父が没するとその息子たちとの間で跡目争いが発生し、これに再び源義家さんが介入して清原氏の血統の息子たちを滅ぼすと(=後三年の役)清衡さんが藤原姓に復して実質的な奥羽=現在の東北地方の統治者となったのです。
秀衡さまは保元2(1157)年に父の基衡さまの死を受けて一族の長となりましたが、清衡さま以来、京都の求めに応じて金や馬、矢羽根にする鷲の羽根などを貢納することで地位を保ち、前年に京都で発生した保元の乱と平治元(1160)年の平治の乱には関与せず、その後の平家の繁栄と源平の争乱にも遠隔地と言う地の利を活かして傍観者を極め込むつもりでしたが、平治の乱で敗死した源義朝さんの遺児・義経くんを匿って育てたのが大失策となりました。厄病神に成長した義経くんは異母兄の頼朝さまが関東で決起したとの報を聞いて参陣しようと飛び出したため、秀衡さんは武勇に優れる佐藤継信さん・忠信さん兄弟を同行させたのですが、平家を壇ノ浦で滅ぼしたところでお役御免になり、頼朝さんに無断で後白河法皇から官位を受けたことを糾弾されると京都から平泉へ逃げ戻ってきたのです。その結果、鎌倉を拠点に勢力を拡張していた頼朝さまに頼義・義家さん以来の征服欲が燃え上がり、秀衡さまの死を待って側室が生んだ長子の国衡さんと公家の娘が産んだ嫡子の泰衡さんの跡目争いを策謀し、分裂に乗じて侵略を開始し、奥州藤原氏は文治5(1189)年に滅亡しました。東北に極めて多い佐藤、工藤、伊藤、加藤などの「藤」を用いた姓は各地に潜伏した藤原一族を隠すため家臣が名乗ったことによります。
清衡さま、基衡さま、秀衡さまの遺骸と泰衡さんの首は平泉の中尊寺金色堂内に現存するため医学・科学的な検証によって多くの点が解明されています。秀衡さまの血液型はAB型(父親の基衡さまはA型)。身長は164センチでいかり肩だったこと。腹が突き出した肥満体だったこと。顔は大きく、鼻筋が高く通り、顎が長かったこと。(当時としては珍しく)重度の歯槽膿漏で虫歯もあったこと。晩年は脊髄を病んで横臥にも苦痛が伴ったであろうこと。死因は脊髄に細菌が入り、敗血症を発症したことなどが公表されています。
  1. 2020/10/28(水) 13:49:27|
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