fc2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

12月18日・初代会津藩主・保科正之公の命日

寛文20(1615)年の明日12月18日(太陰暦)は2代将軍・徳川秀忠公が侍女に産ませた隠し子で初代会津藩主になった保科正之公の命日です。
会津藩主は枝胤として松平姓を名乗り、会津三つ葉葵紋を許されていますが、正之公は複雑な事情を抱えて出自を隠さなければならなかった母子を正室と実子として受け入れ、養子を廃嫡してまで藩主を継がせた高遠藩主・保科家への恩義でその姓と家紋を守り、嫡男も継承したため松平姓を名乗り、会津三つ葉葵を着用したのは3代藩主からです。また保科家=会津松平家は御三家を差し置いて3代・家光公専用だった萌黄色の着用も唯一許されていましたから東照神君・家康公の息子たち以上の格式と信頼を得ていたことが判ります。
正之公は慶長16(1611)年に秀忠公が乳母の侍女だった小田原・北条家の遺臣の娘・静さんに産ませた4男です。ところが秀忠公は豊臣秀吉さんから近江・浅井(あざい)家の3女の江さんを正室に押しつけられていたため極度の恐妻家で、若い侍女に手をつけたことが発覚することを恐れ、側近の老中・土井利勝さまの手配で江戸城田安門の屋敷に住んでいた高田信玄公の2女で穴山梅雪さんの元正室の尼僧に預けられ、そこで養育されました(会津藩の系図では生母の姉婿宅で生まれたとしている)。そして元和3(1617)年に武田家の旧臣で信州・高遠藩主の保科正光さんの養子になり、そこで成長したのです。寛永3(1626)年に秀忠公の恐妻が死ぬと鷹狩りで立ち寄った寺で正之公の存在を知った異母兄の3代将軍・家光公の計らいで寛永8(1631)年には実父・秀忠公と対面を果たしました。それ以降は秀忠公の隠し子であることは「みんな知ってる内緒」にしながら将軍の弟として別格扱いを受け、また正之公は極めて有能な上、高潔な人格者であったため広く人望を集め、家光公が春日局の養育を受けていた頃の学友・お側衆から仕える幕閣たちを束ねる存在として重きを成していったのです。
寛永13(1636)年に高遠3万石から山形20万石に移封されましたが、高遠では正之公の善政を慕って3000人もの農民が山形へついていってしまったそうです。そして寛永20(1643)年に会津24万石に再移封されて幕末まで忠誠一筋を貫き、名門譜代の越後長岡藩・牧野家が辞任した京都所司代を押しつけられると天皇を自分たちの私怨と野望の実現に利用しようとしていた薩長土肥の過激派を取り締まる職務を懸命に遂行した故に怨嗟を一身に受けることになった会津藩ができたのです。
慶安4(1651)年に家光公が亡くなった時、まだ10歳だった4代将軍・家綱公の後見を依頼されたため正之公は大老職に就任して幕政を指揮することになりましたが、ここでも多くの業績を残しています。例えば浪人の増加を防ぐため大名の末期養子を緩和して跡継ぎがないことによる断絶を減少させ、亡君への殉死を禁止するなど人道的な政策を推進し、玉川上水を建設して衛生的な飲料水の供給を実現しています。何よりも明暦の大火では江戸城内に備蓄している兵糧米を庶民に供出し、焼け跡の区画割りではそれまで攻城に備えて狭くしていた道路を拡張し、水路を増やすなどの防火対策を講じました。そうして巨額の復興経費を民生に注ぎこんだ結果、類焼した天守閣の再建は断念したのです。
保科正之みなもと野郎作「風雲児たち」より
  1. 2020/12/17(木) 13:25:03|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<振り向けばイエスタディ2128 | ホーム | 振り向けばイエスタディ2127>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/6589-592648b7
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)