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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

12月23日・A級戦犯なのが証拠!木村兵太郎大将の処刑

昭和23(1948)年の12月23日の午前12時20分にA級戦犯として木村兵太郎大将に2組目の吊首刑が執行されました。60歳でした。
木村大将はミャンマー軍司令官(「ビルマ」は日本のみの誤読)として敗戦を迎えたため実際はアウンサン(敬称略=スーチーの実父)がイギリス軍に内通して日本軍や日本人を襲撃したことで発生したミャンマーでの民兵殺害を日本軍の戦争犯罪とする歴史の歪曲で木村大将はこの罪で死刑判決を受けたと誤解されていますが現地軍の戦争犯罪はB級戦犯に相当し、東京・市ヶ谷の極東国際裁判所で死刑判決を受けた被告人では南京事件の責任を問われた松井石根大将だけです。一方、木村大将はミャンマー軍司令官としては告訴されておらず近衛文麿内閣の時に東條英機陸軍大臣の下で陸軍次官を務め、東條大将が昭和16(1941)年に陸軍大臣を兼務したまま首相になると事実上の空位になった大臣の職務を代行し、昭和19(1944)年7月22日に東條首相が退陣するまでこの職に留まったことによる高度の戦争責任を問われてA級戦犯になったのです。
木村大将は明治21(1888)年に陸軍軍人の息子として東京で生まれましたが、父親の転属先の広島で育ち、陸軍広島幼年学校に入営しました。その父親は日露戦争で戦死しましたが、その遺志を継ぐように陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校へ進み、砲兵士官として軍歴を重ねながら陸軍大学校を修了してドイツ駐在武官の副官や砲兵大隊長、同連隊長を経験した以外は陸軍参謀本部や砲兵学校での勤務が中心でした。ところが昭和14(1929)年に中将で北支の第32師団長に就任すると翌年に関東軍参謀長に移動したことで東條大将と結びつき、昭和16(1941)年以降は前述のように陸軍次官として勤務することになりました。
そしてサイパン陥落を受けて東條内閣が退陣すると翌月末にミャンマー軍司令官に発令され、牟田口廉也中将によるインパール作戦が失敗した直後のミャンマーに赴任したのです。その頃のミャンマーではアウンサンが指揮する民兵による襲撃が頻発し、それまでは建国に向けて強い信頼関係で結ばれていた日本軍・日本人と現地人の間で流血の惨事が頻発していた上、イギリス軍が侵攻を開始して一気に劣勢に陥っていました。これを受けて木村軍司令官は戦意を喪失し、周囲の「首都・ラングーンを要塞化して死守しなければならない」「最前線に立ち、日本軍の威信を示し、士気を鼓舞するべきだ」と言う意見とは逆に日本人の文民を臨時招集してラングーン守備隊としながら本人と幕僚は飛行機でタイ国境近くのモールメインに逃亡したのです。この時、大使以下の日本大使館員や文民と傷病兵は置き去りにされたため徒歩で逃亡しましたが、多くはアウンサン一派によって殺されインパール作戦の戦死者1万8千人の4倍近い犠牲者が出ました。
辞世は「現身(うつしみ)は とはの平和の 人柱 七たび生まれ 国に報いむ」「平和なる 国の弥栄(いやさか)祈るかな 嬉しき便り 待たん浄土に」「うつし世は あとひとときの われながら 生死を超えし 法のみ光り」とご立派で軍人としての罪科を悔いているようには見えません。
  1. 2020/12/23(水) 13:38:11|
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