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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月30日・衣川の戦い

1189(文治5)年の明日閏4月30日(太陰暦)に衣川の戦いが起きました。
ドラマでの衣川の戦いは鎌倉との確執に続く場面なので、頼朝の軍によって攻められたと思われがちですが、実際は藤原秀衡亡き後、跡を継いだ泰衡が、鎌倉の圧力に屈して「義経を総大将として鎌倉に対抗せよ」との父の遺言に背いて討ったのです。
またドラマでは弁慶が守りながら立ち往生し、その背後で炎に包まれるお堂の中で死ぬのが定番ですが、実際は正妻の郷御前と4歳になった娘を殺してからでした。
義経の首は酒に漬けられて43日間かけて鎌倉に送られ、和田義盛と梶原景時の首実験を受けましたが、衣川の戦いは太陽暦なら6月13日なので、鎌倉へ到着したのは7月下旬と言うことになり、アルコール度数が高い焼酎でもない限り腐敗はかなり進んでいたはずで、本人であるかは判らなかったのではないでしょうか。
だから義経伝説が生まれるのですが、青森の津軽半島から北海道には義経が立ち寄ったと言う伝説が数多く遺っています。さらに水戸光圀の「大日本史」ではアイヌの神・オキクルミを義経としていますが、流石に義経がチンギス・ハーンになったと言う伝説は記述していません。
ドラマでの牛若丸は美少年、義経は美男子と言うのが定番ですが、奥州へ逃れる時に出回っていた手配書には「色白く向い歯(出っ歯)」とあり、そのような顔の者は全て捕まったとされています。また平家物語には「色白う背小さきが向歯の殊更に出て」とあり、源義仲や平家で選んだ屑よりも落ちる。さらに源平盛衰記となると「面長うして背低く、色白うして歯出たり」と身も蓋もない記述も見られます。しかし、実際はどうなのでしょう。
父の義朝は平治合戦絵巻くらいしか肖像は見当たりませんが、母の常盤は京の都で一番の美女だったそうですから、それほど醜男だったとは思えません。
ただし、かつて兄の頼朝像とされていた神護寺のハンサムな肖像は、足利尊氏の弟・直義とする説が強まり、伝源頼朝像と言われるようになっています。それ以上に足利尊氏とされていた騎馬武者像の方が明確に否定されていますが。
  1. 2013/04/29(月) 00:46:03|
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