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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ2274

この夏、日本の松本では安川3尉が苦悩していた。4月から5月にかけて出動した熊本の震災では主力が崩れた土砂と倒壊した家屋の撤去と道路の復旧に当たっている中、南阿蘇村の黒川で渡っていた橋が崩落して自動車に乗ったまま谷底に落ちた大学生の捜索に当たっていた。しかし、建設機材は土木作業の現場に集中的に投入されていて谷底を埋めている大量の土砂や岩石、倒木を撤去するために割り当てる余裕はなかった。
「山戸くんの車が見つかったのかァ・・・」夏季休暇前に実施される演習に向かう月曜日の朝、聡美が食事の準備をしている間に新聞に目を通していた安川3尉は気になる記事を見つけた。
記事の見出しは「行方不明の大学生の車発見」「両親の悲願の捜索3ヶ月」とある。写真は南阿蘇村の捜索現場で毎日会っていた大学生の両親の安堵したような顔だった。熟読する時間はないので急いで記事を読むと思いがけない発言と解説が並んでいた。
「自衛隊は捜索を拒否して放置したからボランティアを募って自分たちで捜索を始めた」母親の喜びと感謝の言葉に続けているのでこれも父親の発言のようだが、記事の脈絡から見ると単に発見できなかった事実から推測した記者の作文らしい。実際、両親は朝から夕方まで交代で捜索現場に立ち合い、危険な作業では「息子のために無理はするな」と呼び掛けていたのだからその懸命な努力を否定するはずがない。
「崩落現場から400メートル下流で埋もれている車体の一部を発見した」と言う記事の続きには「発見できたのは熊本市内の環境団体が黒川の水がいつまでも濁っているのはここの瓦礫や土砂が原因だと撤去を県に働き掛けて土木作業が始まったおかげだ」とある。しかし、あの時熊本市内の環境団体は「水が濁っているのは捜索作業が原因だ」と告発してマスコミに取材させたが、現場で山岳レンジャーと施設レンジャーが少人数で可能な限りの捜索をしているのを見て黙って帰っていった。これも地元の人間ではない都市部の記者が環境団体から聞いた手柄話を事実確認せずに記事にしたようだ。
安川家では名古屋の情報が充実している信州版C日新聞を取っているが、首都圏ではT京新聞と名乗ってA日新聞やM日新聞以上の極左新聞と言われている。この記事も名古屋ではなく東京から取材に行ったT京新聞の記者が書いたのかも知れない。
「恐い顔して何か嫌なニュースがあったの」そこに聡美が朝食を運んできた。演習に行く朝は少し早目に起きて元気が出る料理に腕を奮うのだが、寝る前には激しい夫婦の営みがあるので寝不足気味だ。それでも座卓に料理を並べて覗き込んだ顔は相変らず可愛いらしい。
「うん、熊本の震災で息子さんを捜索した山戸さんが載っているんだ。でも本人の発言と思えないことが書いてあるよ」「最近の熊本の記事は大震災から3カ月過ぎても復興が進まないのは加倍政権と熊本県知事と熊本市長の3人とも仲が悪いから連携ができてないって話ばっかりだけどネタを変えたのね」やはり聡美もT京新聞の影響を少し受けているのではないか。C日新聞は保守的な愛知県の読者に合わせてT京新聞よりも政府与党への批判を薄めているが、視点は同じなので赤い物を単に「赤い」と書くか「真っ赤」と書くかの違いしかない。これが文章力に優れるA日新聞なら「血のようだ」と書くのだろう。
「本当は夏季休暇で熊本へ行って捜索を手伝おうって思っていたんだけど、見つかったんだったら出番はないな」安川3尉はいつもよりも2品多い朝食を見回すと手を合わせたが、聡美は穂高が目を覚まして寝室に行ったので手料理を誉めることはできなかった。
「もしもし、安川3尉さんのお宅ですか」安川3尉が長野と新潟の県境の関山(せきやま)演習場で野営に入った夜、安川家に電話が入った。相手は安川や白井の両親と同世代だが聡美には聞き憶えがない声で不思議な訛りが強かった。
「はい、主人は演習に行っています」「それは頑張っとるたい。留守中にすんまっしぇん」この返事で相手が九州でも熊本の人だと判った。前川原がある久留米と熊本は人の交流が盛んで、聡美も熊本弁を耳にする機会が多かったのだ。
「オイは阿蘇の山戸です。最近、新聞に妙な記事が載ったけんお詫びの電話ばしたとです」「息子さんの車が見つかったって言う記事ですね。主人も読んでいました」「まったく糞記者が勝手なことば書き腐って、あいでは懸命に探して下さった安川3尉さんたちに申し訳なかと思いよるんです」「それを聞けば主人も安心すると思います」聡美も山戸の説明を聞いて心から安堵した。安川3尉は演習に出発する前には平静を保つように努めているので何も言わなかったが、内心では深く傷つき、苛立っていたことは妻なので十分わかっていた。その時、歩み寄った穂高が足元で転んで泣いた。
「小さな子供がいるとね」「はい、近寄ってきて転びました」「男の子ね」「はい、穂高って言います」「男の子か・・・」聡美の説明に山戸は口ごもった。やはり亡くした息子を思い出したようだ(大学生は8月11日に遺骸を収用され、盂蘭盆会には間に合った)。
た・葦田伊織イメージ画像
  1. 2021/05/13(木) 13:34:50|
  2. 夜の連続小説8
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