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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

7月27日・日本海軍の秘密兵器・高木惣吉少将の命日

昭和54(1979)年の明日7月27日は戊辰戦争の倒幕による政権奪取を「天下盗り」と誤解していた毛利藩閥によって作られた陸軍とは逆に政治とは無縁だった海軍の中で「非政治性が海軍の弱点」と認識する重鎮たちによって軍政の専門家として育成され、和平工作の中で実力を発揮した逸材・高木惣一少将の命日です。85歳でした。
高木少将は明治26(1893)年に現在の熊本県人吉市の極貧の農家の息子として生まれ、高等小学校を卒業するとそのまま鉄道の工事事務所に就職して働きながら通信教育で中学課程を学びました。中学課程を修了すると上京して製本会社に再就職し、2年後には現在の東京理科大学に進学しますが学資以外の雑費が不足して断念、大正元(1912)年に学力試験が通れば学歴は問わない海軍兵学校に100名中21番の成績で合格し、43期生として入営しました。ところが貧しい家庭で育ったためなのか健康体ではなく大正4(1915)年に卒業してからの艦船勤務では健康を害して鎮守府司令部の連絡員などの陸上勤務と入校の繰り返しになりましたが、戦争がない大正時代だったので人事上の瑕疵にはならず昭和2(1927)年には首席で海軍大学校を修了しています。
その年の暮れからは少佐で在フランス駐在武官の補佐官として赴任し、昭和4(1929)年に帰国すると海軍省、軍令部、海軍大学校の教官など一貫して中央の陸上勤務になりましたが、この人事の裏では第1次世界大戦後の軍縮に反発する陸軍が政治への介入を強めているのに対して海軍は大正3(1914)年の艦艇建造にまつわる海軍中枢への大汚職・シーメンス事件への反省から政治とは距離を置く姿勢を堅持していて日本に蔓延していく軍国主義の風潮に危機感を抱いていた岡田啓介大将などの重鎮から海軍の政治的立場の確立やその実現のための政策の研究と人脈の構築を命ぜられていたのです。
しかし、陸軍は昭和6(1931)年に満州事変を起こしてから政治を無視して紛争の拡大に盲進し、昭和11(1936)年に2・26事件を起こすと逆にクーデターの再発で文民の政治屋を脅迫して実権を握り、やがては日独伊三国同盟から第2次世界大戦への参戦へ突き進んでいきました。これに対して高木少将は構築してきた国内外の人脈を駆使して戦争の早期終結を追求しましたが、東條英機首相の手下の特高警察や憲兵の監視を受けることになり、人脈にも危害が及ぶ危険を察知して東條首相の暗殺による和平実現を目指す新政権の樹立を計画するようになりました。この計画は実行段階に至っていたのですが、昭和の陛下にサイパン島陥落の責任を追及された東條首相が辞任したことで中止になりました。その後は小磯国昭内閣と鈴木貫太郎内閣の米内光政海軍大臣の密命で和平に向けて国内の有力者の意思統一を図るべく活動し、本土決戦に固執する陸軍を政治的に孤立化させることに成功しています。
敗戦後は辰巳亥子夫のペンネームで明治以降の陸海軍の失敗を検証する多くの戦史の著書を執筆しましたが、最大の業績は江田島の海上自衛隊幹部候補生学校で山梨勝之進大将と2人で長期間にわたる戦史戦略の特別講師を務め、その膨大な原稿と資料を国立国会図書館と防衛研究所に閲覧可能の状態で寄贈したことでしょう(野僧も目黒で拝読しました)。
  1. 2021/07/26(月) 13:48:15|
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