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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

8月17日・毛沢東暗殺未遂容疑で山口隆一が処刑された。

1951年の8月17日の午後5時頃に北京の天橋刑場で日本人の山口隆一さんが毛沢東主席暗殺未遂容疑で主犯とされたイタリア人と一緒に死刑を執行されました。
事件は1950年10月1日に天安門広場で開催された第2回国慶節=中華人民共和国建国記念日の式典で毛沢東主席以下の共産党要人が並ぶ天安門に迫撃砲を発射して爆殺しようとしたと言うもので、主犯はアメリカのスパイとして監視対象だった上海生まれのイタリア人で母国の空軍士官学校を卒業後に国民党軍航空部隊の指導に当たる一方で日本の特務機関の工作員として活動し、戦後は貿易会社を経営していた56歳の男性でした。一方、執行時46歳だった山口さんも明治38(1905)年に東京で生まれ、5歳の時に三井物産に勤めていた父親の転勤で香港に住んだことで中国好きになり、京都大学を卒業して宮内省に入省しながら支那事変が勃発した昭和13(1988)年に実質的に日本海軍が運営している中国の海運会社に転職して北京で敗戦を迎え、ここで生活のためにアメリカ軍の駐在武官に情報を提供して報酬を受け取るようになったなど疑われるのに十分な経歴の持ち主ではありました。
しかし、事件そのものはかなり無理がある捏造で凶器とされる迫撃砲は主犯のイタリア人が国民党軍に売り込むために持ち込んだ廃品同様の代物の上、部品が幾つか欠落していて
武器としては使用不能でした。なお当局は欠落していた部品をバチカン使節団の司祭宅の廃材捨て場で発見・回収していて、裁判では「発覚を警戒して直前に組み立てる計画だった」と説明しています。山口さんを共犯者とする証拠とされたのは友人への書簡に同封されていた天安門広場のスケッチで天安門の上に線が1本引かれていて「これが迫撃砲の弾道を計算した図だ」と主張しました。ところがこのスケッチ自体が日本から輸入した消防車の放水訓練を描いたもので線は弾道ではなく放水だったのです。そして山口さんとイタリア人には隣人としての近所づきあい以上の関係はなく首謀者とされたアメリカ軍の駐在武官は事件の5ヶ月前に帰国していて2人を仲介し、指揮を執った形跡は発見できませんでした。
何よりも国慶節の式典では数万人の参加者が天安門広場に集まり、人民解放軍の観閲行進も実施されるので周囲には多数の部隊と兵士が待機していて迫撃砲の砲弾を目標に命中させられる距離まで気づかれずに接近するのは無理でした。
それでも裁判では有罪になり、即時執行が一般的だったので午後5時になったようです。当時の共産党中国の死刑は恐怖を和らげるための目隠しや頭から布を被せることもなく拳銃で後頭部を射つ方法でした。山口さんは兵士が緊張して1発目を外すと「落ちつけ」と声をかけ、2発目で絶命したそうです(イタリア人に立ち合った神父の証言)。
後年、周恩来首相は「この事件は間違いであった」と認め、2011年になって公安部の要人は香港の書籍で「アメリカを犯罪者にする目的だった」と目的を説明しています。
この山口さんの死刑執行は敗戦後に日本人が国外で処刑された「最初」であり、2010年に同じく共産党中国で麻薬密輸罪の4人が処刑されるまで「唯一」でした。
  1. 2021/08/16(月) 14:11:47|
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