昭和50(1975)年の10月21日は陸上自衛隊の第1混成団長を務めた桑江良逢陸将補と共に沖縄県出身の将軍の長嶺亀助陸軍少将の命日です(初代沖縄地方連絡本部長だった又吉康助陸将補=陸軍士官学校55期は退官昇任なので加えません)。
野僧は那覇基地で勤務している時、小禄の居酒屋のカウンターで隣りになった小父さんから小禄出身の陸軍少将で、しかも航空士官だった人物として長嶺少将の話を詳しく聞き、毎度の悪癖で調べるようになりました。
長嶺少将は明治17(1884)年に小禄の当間(野僧が勤務していた頃は復帰後に取り壊された米軍住宅地跡で一面の空き地だった)の農家の孫として生まれました。小禄尋常小学校から那覇尋常高等小学校、旧制・沖縄第1中学校=現在の首里高校を卒業して第18期生として陸軍士官学校に入営すると生徒として日露戦争を体験し、終戦後の明治38(1905)年に修了しました。なお、敗戦時の陸軍大臣・阿南惟幾大将や「マレーの虎」・山下奉文大将、日独伊3国同盟を推進した大島浩中将は同期です。
修了後は福岡に在った歩兵第24連隊に配属されて翌年6月に歩兵少尉に任官しました。歩兵第24連隊から第28期生として陸軍大学校に入校し(同期にはA級戦犯で死刑になった板垣征四郎大将と木村兵太郎大将、沖縄第32軍司令官・牛島満大将、山下奉文大将、最後の陸軍大臣・下村定大将、帝国陸軍切っての英才・田中静壱大将などがいた)、修了後は大尉の中隊長として1年間だけ勤務しましたが、翌・大正6(1917)年に参謀本部への転属を命ぜられ、ロシア革命が勃発すると出張命令で現在の新疆ウィグルに2年間滞在しています。そうして翌年には関東軍司令部に転属になり、大正11(1922)年に少佐に昇任して大正13(1924)年に名古屋から移駐してきた歩兵第6連隊の大隊長になったのが、大空へテイクオフ(離陸)するランウェイ(滑走路)になりました。
まもなく歩兵第6連隊に飛行機が配備されるとこれを管理・運用する関東軍飛行隊長を兼務することになり、大正14(1925)年に兵科を歩兵から新設の航空に転換して飛行隊長専任になると航空中佐に昇任し、以降は航空部隊の建設に邁進したのです。昭和2(1927)年に下志津の陸軍飛行学校の教官に転属して昭和5(1930)年に航空大佐に昇任すると関東軍で創設した飛行第6連隊長として赴任し、翌年には関東軍飛行隊長として満州事変に参戦、翌年に飛行第6連隊長に復帰すると今度は所沢の陸軍飛行学校(後の航空士官学校)の教育部長や幹事などを歴任して陸軍の飛行教育を確立し、昭和9(1934)年に陸軍少将に昇任して航空産業を育成する陸軍航空本廠長に就任しました。ところがこの時点でも航空戦力の重要性を理解していなかった陸軍の人事で昭和11(1936)年に予備役編入になり、退役後は特殊軽金属会社の社長を勤めました。
これだけ多大な業績を残しながら陸軍大学校の同期たちのように大将、中将にさえなれなかったのは帝国陸軍の将官人事は派閥・人脈が物を言うので新規参入の航空科では引き上げ、押し上げる先人がいなかったのでしょう。この業績を顕彰するためにせめて郷土の那覇基地に銅像を建立したいものです。
- 2021/10/21(木) 14:01:23|
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