1972年の10月25日は連合軍総司令部=GHQの情報担当の第2部長として敗戦後の日本を注視する中で戦前の政策が迫りくる共産革命を阻止する目的だったことを認識して機能維持に尽力したチャールズ・アンドリュー・ウィロビー少将の命日です。
ウィロビー少将は情報担当者として必要だったのか、単なる自己顕示欲だったのかは不明ですがアメリカに移住・帰化するまでの経歴には詐称の疑惑が指摘されています。自己申告では1892年にドイツのハイデルベルグでヴァイデンバッハ男爵とアメリカ人の母の間に生まれたことになっていますが、同姓同名の陸軍大将はいても男爵ではなく、大将には5人子供がいるものの1892年に出生した子供はなく、生年月日と出生地が正しいければ同姓の縄職人の子供が生まれた戸籍の記録があるそうです。
それでもアメリカに帰化してからの経歴は事実が記録に残っていきますが、1910年に帰化が認められるとそのまま陸軍に予備役登録して兵士になり、同時にゲティスバーグ・カレッジに入学しています。卒業時には少佐に昇任していて、カンザス大学に入学して間もなく第1次世界大戦に従軍するため中退しまずが、戦功と昇任を重ねて1941年にはマックアーサー少将のフィリピン軍司令部に大佐の情報参謀として赴任しました。しかし、同年12月8日に日本が対米英戦を開始すると同日に空襲を受けて航空戦力が壊滅し、12月10日からルソン島への上陸が始まり、バターン半島に追い詰められて翌年3月11日にオーストラリアへ逃亡するのにも同行しています。
帰国後は新たに設置された連合軍翻訳通訳課や連合軍諜報局で日系移民を使った日本軍の通信の傍受と翻訳や暗号解読に手腕を発揮し、1945年4月に少将に昇任して9月2日に行われた戦艦・ミズーリ甲板上の日本軍と日本政府の降伏文書調印式にも参加しました。終戦後は占領軍総司令部2部長として同じ連合軍のソ連に対する諜報や情報活動を阻止する防諜と日本国内の共産主義者の同行を監視する保安、さらに主にマスコミの報道を検閲する任務を指揮しましたが、やがて戦前の日本はアメリカが考えていたようなナチス・ドイツと同様の軍事独裁国家ではなくむしろ共産革命の阻止に法定手続きを踏んで努力していたことを知り、東京裁判の欺瞞性を批判して法的根拠が薄いA級戦犯の起訴を取り下げ、ルーズベルト政権内のスターリンの工作員が送り込まれていた民政局が人権擁護と民主主義推進の名目で共産党員などの政治犯の釈放や治安維持法の廃止と特別高等警察の解体を進めるのに抵抗し、後の公安警察や公安調査庁の前身を創設するなど戦前回帰を志向するようになりました。敗戦後の日本で頻発した共産革命を標榜する労働・学生運動が革命にまで暴走しなかったのはこのようなウィロビー少将の功績が大きいのです。
しかし、1950年に朝鮮戦争が始まるとマックア-サー司令官に「成立して間もない共産党中国は国内が混乱していて参戦できる状況ではない」とする見解を述べて判断を誤らせたため帰国することになりCIAの設立に参画した後、1951年に退役しました。退役後は1968年までヨーロッパ最後の国家主義政権だったスペインのフランコ総統の非公式な顧問になって長期独裁体制を維持させています。
- 2021/10/25(月) 14:38:10|
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