ダンマパタ第15句「造悪後憂 行悪両憂 彼憂惟懼 見罪心=憂いを造りて後に憂い、悪を行ぜば両(とも)ながら憂う。彼も憂い、惟(われ)も懼れ、罪を見て心おそる」
同第16句「造善後喜 行善両喜 彼喜惟歓 見福心安=喜びを造りて後に喜び、善を行ぜば両(とも)ながら喜ぶ。彼も喜び、惟(われ)も歓び、福を見て心安からん」
これは南方佛教における「因果応報」の理を説いているようです。日本で「因果応報」と言う時には「自業自得」と同様に「現在の苦境は過去の悪業の報いだ」と言う運命論的な自己責任を意味しますが、南方佛教では「良い結果が欲しければ良い原因を作れ」「悪い原因と作れば悪い結果を招くのは当然だ」と極めて単純明快な原因と結果の法則として理解されています。複雑多岐な現代社会では無数の原因が錯綜し、期待した結果が訪れることは滅多にありませんが、それでも良い種を播かなければ良い芽は出ず、望む花が咲かないように良い原因を作らなければ良い結果が来ないのは至極当然です。一方、南方佛教は「全てを阿弥陀如来に任せて一向に念佛を唱えよ」と説く浄土真宗の門徒のように自分に突きつけられた苦難までも「有り難いことです」と手を合わせるような不自然=無理な教えは説きません。ましてや直接的な原因がないのに発生する結果を「罰(ばち)」や「助け」などと超自然的な力の関与と受け止める神憑りは認めません。苦は苦として直視して、その原因を探求して望む結果を招く原因を作るのです。
ただし、良い原因を作ることで望む通りの結果がくると言う保証は与えておらず、良い原因を作ることで生活が整い、具体的な結果に関係なく生活環境が安住の地になることを説いているのです。とは言え野僧は幼い頃から父親に「努力に不可能はない」と言われ続け、結果が出ないと「努力が足らないのだ」と頭ごなしに叱責されてきました。しかし、運動神経が鈍い子供はどれほど懸命に努力しても運動神経抜群のスポーツ少年に太刀打ちできず、試合で補欠に甘んじると父親からは「情けない」「もっと必死に努力しろ」と厳命されるのでした。さらに航空自衛隊に入隊して間もなく同期が1500メートル走の計測中に心臓麻痺で死亡したため、まさしく「懸命=命懸け」「必死=必ず死ぬ」の努力を現実として受け止めてしまったのです。
それ以降は仕事、体育、学業の全てで「生きている間は努力が足りない」と自分を極限にまで追い詰めるようになり、その結果、学科成績は大学中退でありながら大卒資格の幹部候補生に特例合格し、軍事知識、特に戦争法は出版社から手引き書の刊行を勧められるようになり、人の数倍は運動神経が鈍いにも関わらず少林寺拳法の全自衛隊大会で優勝し、体育学校格闘課程に入校して指導官の資格を取得しましたが、そんな毎日が限界に近づき生死の一線を踏み越えつつあった頃、尊敬する自衛隊の上司が語った教示が野僧を救ってくれました。それは隊員の服務事故が連続している部隊の隊長が「努力に不可能はないの覚悟で指導を継続します」と決意を表明したのに対して「努力に不可能はある。しかし、ネバー・ギブアップだ」と訂正した言葉でした。結局、父親は努力で何とかなる程度の安全地帯で暮らす民間人に過ぎず、現実に外国軍と対峙し、一瞬の隙が日本の安全保障に重大な危機を招来する航空自衛隊とは仕事の次元が違うのです。
さらに自衛隊体育学校で運動適性に関するスカウト理論を学んだおかげで同じように努力するのなら向いた種目を選ぶべきであることを理解し、愚息たちには身体特性から最も適した種目を始めさせたので愚息1はバイアスロンで冬季オリンピックの強化要員の候補になる成績を収め、愚息2も中学校までサッカー部の主力選手として活躍させることができました。一方、野僧は過度の運動のため全身に故障を抱え、内臓疾患を発症して年齢以上に衰えた初老期を過ごしています。良い結果を招くために良い原因を作ることですが、その選択と実行は結果を自己責任に帰するために本人の動機とするべきです。
- 2021/11/01(月) 15:09:36|
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