昭和35(1960)年の11月2日に同年10月12日に浅沼稲次郎社会党委員長を刺殺した山口二矢くん(おとや・17歳だったので「くん」)が拘置所内で自決しました。
山口くんは昭和18(1943)年2月22日に東京都台東区で東北帝国大学を卒業しながら敗戦後に警察予備隊に入隊する父親と任侠小説で人気を得ていた大衆作家の3女の母親との間の二男として生まれました。後年、父親は誕生月日と二男であることから「2」と言う数字に縁があると「二矢(おとや)」と命名したと語っています。
成績優秀だった兄が少年時代から愛国思想に染まり、敗戦後の日本に蔓延する共産革命運動に対抗するのを見て育ったため幼い頃から同じ道を歩み始め、父親の陸上自衛隊での勤務が北海道と東京の往復だったので昭和33(1958)年に玉川学園高等部に入学したものの北星学園(朝日新聞で戦時売春婦の捏造記事を連載した植村隆記者が退職後に大学部の講師になった)に転校するとすぐに1人で東京に戻って玉川学園に復帰しています。
昭和34(1959)年に日本愛国党の赤尾敏党首の「日本は革命前夜にある。青年は今すぐ左翼と対決しなければならない」と言う街頭演説を聞いて入党を懇願しましたが「若過ぎる」と断られたため、玉川学園を中退して現在の山梨県北杜市にあった右翼の私塾に入り、塾頭の紹介で大東文化大学の聴講生になって愛国党本部で雑用をこなす間に青年部員として活動することになりました。青年部員としては赤尾党首の街頭演説に野次を飛ばす者を打擲(ちょうちゃく=殴打)し、左翼の集会を妨害する暴力行為を繰り返したため愛国党に入党して半年間で10回検挙され、昭和34(1959)年12月には保護観察処分4年の処分を受けています。
昭和35(1960)年になると「赤尾先生に打ち明ければ阻止される」「党に迷惑をかけることはできない」と同志2人と愛国党を脱党して、先ず同年6月17日に2人が社会党顧問を刺した事件が起こすと「私がやる時には殺害と言う徹底した方法でやらんばならぬ」と決意し、10月4日に自宅でアコーデオンを探していて偶然に白木鞘の脇差を見つけたことで斬奸=天誅の実行手段を手に入れたのです。
当初、山口くんの標的は日教組の委員長と共産党の野坂参三議長でしたが2人とも所在が確認できず、10月12日に日比谷公会堂で開催される自民党・社会党・民主社会党による党首合同演説会で実態は共産党以上に革命志向を強めていた社会党の浅沼委員長を殺害することを決意し、演説中に壇上に駆け上がり左胸を刺して即死させました。山口くんはその場で自決を図りましたが、警察官に取り押さえられて果たせませんでした。
警察の取り調べには淡々と答え、「後悔はしていないが償いはする」と言っていた通り、告訴される前に指に歯磨き粉をつけて「七生報国 天皇陛下万才」と壁に書き残してシーツを裂いて作った紐を電灯の金網にかけて首を吊って自らを裁きました。
情ないことに防衛庁は1等陸佐だった父親を本人の意思に反して「依願」退職させ、大東文化大学は聴講生だった事実を完全否定しましたが、逆に中退した玉川学園は小原國芳学園長の意向で「かつての生徒」として処遇しています。
- 2021/11/02(火) 16:01:10|
- 自衛隊史
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