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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

11月8日・プロシア=ドイツ陸軍の象徴・マッケンゼン元帥の命日

1945年5月8日にナチス・ドイツが降伏して半年後の明日11月8日にプロシア=ドイツ陸軍の象徴だったアウグスト・フォン・「負っけんぜン」元へマッケンゼン元帥が亡くなりました。96歳の誕生日の28日前でした。
マッケンゼン元帥は1849年にプロイセン王国ヴィッテンベルクの荘園管理人の息子として生まれました。村の学校を修了するとトルガウの中等教育学校に進学しましたが、後にハレの中等教育学校に転校してルーテル派プロテスタントの厳格な教育を受けました。ところが1868年に成績不良で退校処分を受け、同時期に兵役も虚弱体質と判定されてしまい仕方なく実家に帰って父の下で農作業を始めました。ところが一転判定が覆り、1年志願兵として騎兵連隊でも突進を担当する部隊に入営して兵役を満了しました。兵役を終えると大学に入学できて農学を専攻しますが1870年に普仏戦争が始まると予備士官として従軍して戦功を上げて勲章を受け、少尉に任官して終戦を迎えました。終戦後は大学に復学しますが軍人志望になり、1873年に職業軍人になると軍務に精励しただけでなく巧みに上官の評価を得る術を修得し、さらに詳細な戦争記録を執筆したことで存在を認められるようになり異例の出世を果たしました。1880年には陸軍大学校を修了して参謀本部に配属され、1891年に参謀総長の首席副官、1989年からは皇帝・ウィリヘルム2世の副官に栄転すると寵愛を受け、貴族に列せられて「フォン」の称号を許されました(この逸話で同性愛者と言う風説もありますが、妻と3男2女を儲けています)。
1914年7月28日に第1次世界大戦が勃発すると第14軍団司令官に就任し、東部戦線の帝政ロシア軍との対戦では2時間で9000人を戦死させたグンピンネン会戦や第2軍を包囲殲滅したダンネンベルク会戦を指揮し、11月には第9軍団司令官に転任してセイルビアを占領、翌年4月には新設の第11軍団司令官に移動してゴルリッツ突破作戦を成功させています。これらの戦功によって元帥に昇任すると1916年にはオーストリア軍と協同でルーマニアに侵攻し、終戦まで軍政総督を務めました。
ところが戦況は優位に展開していたにも関わらずプロシア国内で反皇帝の内紛が起こったことで戦争が継続できなくなり、1918年11月11日に敗れてもいない敵に降伏することになりました。敗戦時にはハンガリーで身柄を拘束されて1年後に帰国しますが、新たなヴァイマール政府は認めず、「ヴェルサイユ条約の破棄」を公言するようになり、そんな中で同じ主張を表看板とするナチスが台頭してきたのです。マッケンゼン元帥とナチスの関係は微妙でヴェルサイユ条約の破棄や再軍備には賛成でも第3帝国を標榜するために平民のナチスの指導者たちが「プロシア帝国の後継者」を名乗ることは許せず、政敵の粛清やユダヤ人虐殺は軍人として我慢ならない悪事でした。それでもナチスはプロシア貴族階層の将軍たちを従属させるためにマッケンゼン元帥を利用し、象徴的存在として名誉を与えてナチス・ドイツ軍の正統性を喧伝したのです。
そのナチス・ドイツ軍が敗退し、ソ連軍が迫る中、マッケンゼン元帥はニーダーザクセン州に避難し、この地で亡くなりました。
  1. 2021/11/07(日) 15:47:36|
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