fc2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ2469

「貴方、アフガニスタンで大村先生が殺されてしまったわ」宮城県の船岡では冬本番の降雪を前に自作の山小屋の点検と補強に行っていた茶山元3佐が帰宅すると妻の静が庭に出てきてニュース速報を流した。茶山元3佐は朝から握り飯の弁当持ちで行っていたので昼のニュースは見ていない。携帯ラジオも乾電池が切れたのか入らなかった。
「やっぱりイスラム過激派に殺られたのか」茶山元3佐は自転車を止めると何時になく重い口調で確認した。茶山元3佐は新聞で医師としてハンセン病の予防と傷病者の診療のためアフガニスタンとパキスタンに赴きながら現地の劣悪な衛生事情を目の当たりにして井戸の掘削を始めた大村哲医師を紹介する記事を読んで以来、敬意と関心を持って注視してきたのだ。
「テレビではタリバーンの犯行だって言ってるけど・・・タリバーンの幹部も犯行を認めているそうよ」静はテレビの解説を請け売りしてきた。茶山元3佐は前月の新聞を送っている定期便にアフガニスタン情勢に関する質問を同封することがあるが、モリヤ2佐は現地に調査に入った経験から「現政権はアメリカの傀儡に過ぎず、大多数の国民はタリバーンの復活を願っている」「アフガニスタンとミャンマーにはシリアから逃れたイスラム過激派が多数流入していてテロを頻発させている」と新聞には全く書かれていない実情を力説してきた。勿論、静にもモリヤ2佐からの返事は見せているが、庶民の日常とは次元が違う政治や国際情勢に関しては夫の友人の自衛官よりも大手マスコミの報道を信用するのは仕方ない。
「前に貴方は大村先生の感慨用水の工事を手伝いに行きたいって言ってたじゃない。本当に行ってたら貴方も死んじゃったかも知れなかったわ」「それを言えばカンボジアのPKOだった似たようなものだったよ」静は大工道具を倉庫に片づけて家に入ってきた茶山元3佐が茶の間の点けっ放しになっているテレビの報道バラエティ番組を見始めるとお茶と菓子を運んできて声をかけた。しかし、カンボジアPKOでもポルポト派の残党によって日本人警察官や選挙監視の大学生が殺害される事件は起きたが、アフガニスタンのように攻撃側が主導権を握っていた訳ではなかった。茶山元3佐は大村医師の井戸の掘削事業が軌道に乗り、それを発展させて灌漑用水の建設に乗り出したことを知ると現地で協力したいと願っていた。それでも冗談めかして静に言うと「年齢を考えろ」と一笑に伏されて終わってしまった。
報道バラエティは事件の詳細な情報は入手していないようで何度も見たことがある大村医師の業績の紹介を流し始め、大村医師自身が灌漑用水の工事の現場で説明する映像になった。
「この取水口の構造は福岡県の朝倉郡にある筑後川の山田堰を参考にしていまして・・・」「ワシは筑後川の山田堰を現物を見たことがあるんだ」「へーッ、何時」茶山元3佐が大村医師の説明に自分の経験を補足すると静は意外そうに返事をした。茶山元3佐は前川原の幹部候補生学校に入校した時、久留米市に隣接する小郡駐屯地の第9施設群から入校している同期が施設科の候補生たちを案内して加藤清正が築いた熊本城下の水路網や黒田藩が手掛けた筑後川の堰堤などを見学して回ったことがある。前川原へは単身入校だったの静が知らないのは当然だ。
山田堰は朝倉郡朝倉町を流れる筑後川にある堀川用水の取水施設で、黒田藩が移封されてきた江戸時代初期には広大な平地でも海抜が高く、慢性的な水不足で野菜を作る畑の開墾も進まなかったこの地域に灌漑用水路を建設したことで一面の水田になった。この成功を見た別の地域の庄屋や代官たちも用水の延長を願い、私財を投じ、農民は工事に参加して次々に堰を拡充したため現在では九州有数の穀倉地帯になった。施設科の候補生の目で見た山田堰は水量が多く流れが早い筑後川の水圧を軽減するために上流側に20度の傾斜がつけてあり、増水した時には堰を流れ越えさせることで水と一緒に被害を受け流す日本的な構造になっていた。また取水口から用水までに段差と傾斜が設けてあり、これも流入した水の水圧を軽減するための工夫だ。まだNHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」が放送されていなかったので施設科の候補生たちの間でも黒田官兵衛が加藤清正や藤堂高虎と並ぶ築城の名手であることは知られておらず、改めて感心したものだった。一方、大村医師は福岡市博多区堅粕の生まれだけに郷土の誇るべき史跡として知っていたのだろう。歴史作家の司馬遼太郎は「信長が壮麗な安土城を築いた頃、瀬戸内の農民たちは棚田を作って急傾斜の山肌を水田にする奇跡を起こした」と宮中や武士の事績だけを日本史にしている現状を批判したが、茶山元3佐は山田堰を見て武家が城郭建築で蓄積した技術が領民のためにも役だっていることを実感し、陣地構築や渡河などの演習で培った技術を部外工事や災害派遣に役立てることを心に誓っていた。
「大村先生の遺志を継ぐためにもアフガニスタンへ行くぞ。ワシも元自衛官だから銃撃を受ければ伏せることは身体が覚えている。銃があれば反撃もできる」「それじゃあモリヤさんと同じことになっちゃうわよ。弁護を頼むの」老骨鞭打つ決意も簡単に却下されてしまった。
  1. 2021/11/22(月) 15:36:46|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<11月22日・史上初の三桁撃墜の達成者・メルダース大佐が事故死した。 | ホーム | 11月22日・反省する韓国人・金泳三大統領の命日>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/7295-8114d258
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)