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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

5月21日・設楽が原の合戦

1575(天正3)年の明日5月21日(太陰暦)に織田・徳川連合軍(と言っても織田は3万、徳川は6千でした)VS武田最強軍団が雌雄を決した設楽が原の合戦が行われました。ただ、この合戦は、それ以前の長篠城攻囲戦からの最終幕でもあり、長篠の合戦に一括りにされることもあります。
設楽が原の合戦は織田の足軽鉄砲隊が最強を誇った武田騎馬軍を打ち破った時代の変革を告げた戦さとして有名ですが(本格的な銃撃戦は紀州・雑賀孫一との戦いで既に行われていた)、1つ疑問なのは現在の設楽が原で鉄砲の弾がほとんど見つからないことです。
関ヶ原や長岡、会津、田原坂などの激戦地では今でも田畑などを耕作していると鉄砲の弾が出てきて困るそうですが、設楽が原では高校や道路を建設した工事の時もこのような話は聞きませんでした。
織田鉄砲隊3千丁が言い伝えのとおり3段交代で射ち続ければ、3回射ったとしても9千発は弾が発射されたことになり、意外に狭い設楽が原にはかなり埋まっているはずです。
これが金になる物であれば、せこい東三河の呑百姓どもが拾ったとも考えられますが、鉛の弾では金具にもなりませんから、それもないでしょう。
また武田流の軍学書「甲陽軍鑑」にも織田鉄砲隊に関する具体的な記述は見当たりません。
そこで野僧の推察ですが、実際に鉄砲で射ったのは馬で、討ち漏らした騎馬は馬防柵で封じておいて槍隊で武者を突き殺したのではないでしょうか。
馬は火縄銃で射たれたくらいでは致命傷にはならず、後で屠殺したとすれば弾丸が土中に残らないので、それほど見つからないのも理解できます。
長篠の合戦は奥平貞昌(後に信長から1字もらって信昌と改名)が籠城する長篠城を武田軍が攻囲したことから始まります。
その前半のハイライトは援軍を要請するため暗夜に城を抜け出し、川を泳ぎ下って岡崎に走った鳥居強右衛門勝商(かつあき)の忠節譚でしょう。
勝商は岡崎まで到着していた織田信長にも会い、一緒に長篠へ向かうように勧められますが、この吉報を城兵に伝えたいと先に長篠へ戻り、武田軍に捕縛されてしまいます。
そこで武田勝頼の前に引き出され、「援軍は来ない。降伏せよ」と言えば命を助け、家臣に取り立てると言われて応諾したのですが、実際には「2、3日のうちに織田、徳川の連合軍、3万5千が来援する。あとひと頑張りだ」と城兵を励ましたため磔になりました。
作手の領主だった奥平氏は後に豊後国中津の藩主となりますが(前野良沢や福沢諭吉を輩出した開明の英君です)、この合戦を「開運の戦」と呼んで家臣一同が子子孫孫まで語り継いだそうで、野僧も東三河よりも中津出身の友人から色々な話を聞きました。
長篠の合戦の後半のハイライトは敗走する武田軍の最後を飾った武田四天王の1人・馬場信春でしょう。馬場は他の老臣たちと設楽が原で雌雄を決しようと気にはやる勝頼を諌めましたが受け容れられず(攻囲では騎馬軍団の機動力が発揮できないため理解はできる)、合戦後は味方の敗北を見極めて徹底を進言して勝頼の退路を守るため反転し、追撃してくる織田・徳川軍の前に立ちはだかりました。そして40数年間、武田3代に仕え、70回以上の合戦に参加しながらかすり傷一つ負わなかった不死身の鬼美濃・馬場信春は寒狭川沿いの山間の道で果てました。
1つ、告白しておかなければならないのは、この合戦や野田城攻囲戦など、この地域で行われた戦いの後、野僧の先祖が地主をしていた土地で多くの武将が死んでいます。
つまりウチの先祖が落ち武者狩りに精を出していたのでしょう。野僧の出家はその業を埋めるためなのかも知れません。
作手古城祭り
奥平家の出身地、新城市作手の古城祭りの鉄砲隊(八重の桜のような女性射手です)
  1. 2013/05/20(月) 09:01:37|
  2. 日記(暦)
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