2002年の明日11月26日は戦後の学校教育を亡国思想の洗脳手段に堕落させた元凶の1人・家永三郎先生(蔑称としての先生)の命日です。
家永先生は愛知県出身と言うこともあり、中学校の教員だった伯父を含め愛知県教組(数少ない共産党系)に加盟している教員の中には信奉者が多いのですが、伯父に強要されて読んだ著書には日本はこの世に存在してはならない凶悪な国家であり、アジア支配に利用しているアメリカも同罪としながら逆にソ連や共産党中国、北朝鮮を人民の楽園として絶賛していて、このような本を自衛官になっている甥に送ってよこした伯父が教員として愛知県から給料をもらっていることが許し難くなりました。
そんな家永先生は意外にも陸軍少将(予備役編入時の昇任)の息子として大正2(1913)年に名古屋で生まれました。ちなみに父親の家永直太郎少将は佐賀県出身で、陸軍士官学校は野僧の曽祖父の青山寛少将の2期先輩の6期です。
幼い頃は父親の転勤で大阪や熊本県八代に転居しましたが、大正8(1919)年に予備役に編入されてからは東京に定住して旧制・東京高等学校から東京帝国大学文学部史学科に進学して卒業後はそのまま史学科編纂所の嘱託職員になって史料の公正のかたわら上代思想史と芸術史の論文を作成しました。家永先生の専門はさらに意外なことに日本の古代精神史で、敗戦後に皇室に対する進講も務めています。
嘱託勤務は4年で退官して昭和16(1941)年に旧制・新潟高等学校の講師・教授になりますが、2年後に帝国学士院の嘱託になり、昭和19(1944)年から東京師範学校の教授になったことが人生を大きく変えました。
敗戦後の学制変更で東京師範学校が東京教育大学になると文学部史学科教授になりましたが日本の歴史学界に蔓延したマルクス史観(物的証拠に基づかない歴史は認めない)には同調せず、古典的な歴史観の継続に努めていたものの朝鮮戦争の勃発を受けて日本国内でも左右の対立が激化すると戦前の自己の仕事が軍国主義に加担した悪事と考えるようになり、極端な反権力の民主主義と反戦を主張し始めたのです。それからは思考が頭の中で煮詰まる佐賀県人気質なのか時間の経過と共に過激化してやがては祖国愛を否定し、同盟国アメリカを敵視しながらソ連や共産党中国による侵略を待望する亡国論者にまで堕ちた頃に徳川幕府の昌平坂学問所の跡地で手狭だった東京教育大学を埼玉県の筑波に移転する計画が持ち上がると学術資料の収集・閲覧と人的交流が困難になると文学部単独で反対し、学生運動の指導者になりました。さらに生徒を反日反米親ソ親中に洗脳するための日本史の教科書を作成し、文部省の検定で不合格になると検定そのものを憲法違反=表現の自由の否定とする裁判を起こして、逆に教科書検定を国家権力による思想統制と批判するマスコミや言論人と同調して反政府運動を扇動しました。
そんな家永先生は昭和52(1977)年まで東京教育大学教授を務め、偏向した政治思想を持った教員=日教組組合員を大量生産し、退官後は私学法学部の頂点・中央大学法学部の教授として昭和59(1984)年まで極左の人権派弁護士を増殖しました。
- 2021/11/28(日) 14:43:47|
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