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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

11月30日・ララ物資の第1便が横浜港に到着した。

昭和21(1946)年の明日11月30日に敗戦後の日本人を救援するためにアジア各国から送られたララ物資の第1便が横浜港に到着しました。「ララ」は英語では「LARA」と書く「Licensed・Agency・for・Relief・in・Asia=アジア公認救援団体」の略称です。
戦勝国・アメリカは自国がほぼ無傷でありながら第1次世界大戦以前の正規軍同士による戦闘と軍事施設と軍需工場だけを攻撃目標にしていた戦争を文民も巻き込み、都市や工業地帯に無差別に攻撃を加える全面戦争に変質させたことを認識し、「海外事業篤志団アメリカ協議会」を中心に多大な損害を受けた敗戦国の救済を開始しましたがそれはヨーロッパに限定され、日本は放置=無視されていました。
一方、敗戦後の日本では働き手の大半が徴兵されて農業や漁業、畜産業の食糧生産量は最低水準で、そこに翌年から戦地で生き残って抑留されていた兵士たちの帰国が始まったため秋の収穫までは乏しい食料で喰いつなぐしかなく飢饉状態に陥っていました。
そんな悲惨な状況をサンフランシスコ在住の日系人ジャーナリストの浅野七之助さんが知り、在アメリカ日系人や数少ない日本に好感を抱くアメリカ人(主に日本での宣教経験を持つキリスト教聖職者)に呼びかけて「日本難民救済会」を設立し、母国へ援助物資を送る事業を開始すると強制収容所から解放されて仕事を再開したばかりの日系人たちが多くの物資を持ち寄り(全支援物資の20パーセントは在アメリカ日系人の供出だった)、アメリカ政府も昭和天皇との会見で「自分はどうなっても構わないから国民を助けて欲しい」と切願されたことに感銘を受けたマックアーサー元帥の粘り強い働きかけもあってアメリカ政府公認組織「ララ」に改編されて日本への救援物資の輸送が始まったのです。
第1便のハワード・スタンペリー号はこの日に横浜港に到着しましたが、その後も昭和27(1952)年まで継続され、重量にして約15000トン、金額にすれば当時の400億円(推定)に上る莫大な物資でした。内容としては重量割で食料が75.3パーセント、衣料品が19.7パーセント、医薬品が0.5パーセント、その他が4.4パーセントでしたが中には生きた乳牛や山羊20頭なども含まれていました。実は日本では出征した将兵の復員が本格化すると農業生産量が急増して飢餓状態を脱したため缶詰や乾燥・粉末食品が中心のララ物資は持て余されるようになり、多くはまだ食糧事情が厳しかった東京・大阪・京都・名古屋・横浜・神戸の300カ所の戦災孤児の収容施設などの給食に回されたようです。中でも学校給食や病院食に配分されていた脱脂粉乳は不人気で生きた乳牛や山羊は「新鮮な乳を飲ませたい」と言う厚意だったのかも知れません。
また救援物資はアメリカだけでなく日本の占領地だった東南アジア各国(フィリピン・ミャンマー・シンガポールを除く)からも届きました。敗戦後の日本人は平成の天皇を含め東南アジア占領を戦争犯罪だと思っていますが、実際はヨーロッパの植民地から解放し、独立に向けて国民の教育や行政組織と法律の整備、道路や治水工事、産業の育成を進めていたので実際に独立を果たすと恩を忘れず、救援の手を差し伸べてくれたのでしょう。
  1. 2021/11/29(月) 16:13:26|
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