12月8日に一般的には少年サンデーに昭和45(1970年)から昭和57(1982)年まで長期連載し、アニメにもなった「ダメおやじ」、山口県では圧倒的購読者数を誇る毎日新聞の日曜版に昭和50(1975)年から2020年まで45年間の超・長期連載した「ぐうたらママ」、野僧にとっては落語漫画の傑作「寄席芸人伝」と週刊ポストに昭和53(1978)年から昭和61(1986)年まで連載したウンチク漫画「減点パパ」、そして未完になった洋酒のウンチク漫画「BARレモン・ハート」の作者の古谷三敏先生が亡くなったそうです。85歳でした。
古谷先生は昭和11(1936)年に満洲の奉天で寿司屋を営む板前の長男として生まれました。父親が満洲に渡って3年目に生まれた子供だったので長男でも三敏と名づけたそうです。父親は腕の良い板前でしたが大の博打好きで、警察に拘束されて1週間帰らなかった間に仕入れていた高級魚が腐って多額の損失を出し、やむなく北京から280キロ離れた渤海湾沿いの陸軍部隊の炊事係になったため最も近い隣りの市の日本人学校まで片道5時間かけて通学したそうです(後にできた分校でも2時間)。
敗戦で帰国して混乱の中で成長しましたが昭和30(1955)年に少女マンガ「みかんの花咲く丘」でデビューすると昭和33(1958)年からは手塚治虫先生の助手になり、昭和36(1961)年に独立すると少女漫画を連載した雑誌社の斡旋で赤塚不二夫先生の助手になりました。しかし、赤塚先生と古谷先生は1歳違いなので雇用関係や師弟と言うよりも兄弟・相棒のような間柄のアイディア担当で「おそ松くん」や「天才バカボン」に携わりました。そして昭和45(1970)年から「ダメおやじ」を連載すると少年漫画としては異例の長期連載になり、続いて毎日新聞の日曜版の「ぐうたらママ」でお茶の間にも進出しました。そして昭和53(1978)年からはビッグコミック誌に「寄席芸人伝」の連載を始め落語好きの高校生だった野僧も単行本を買って愛読しました。さらに通学中にサラリーマンが笑いながら熱心に読んでいるのを見て興味を持った「減点パパ」も単行本で熟読し、昭和57(1982)年に20歳で大学を中退して航空自衛隊に入った頃には立派なウンチク親父になっていました。教官や同期たちは大学で雑学も学んだと思っていたようですが、岡崎の矢作南小学校で身についた探求心で集めた知識をウンチク(後にトリビア=雑知識と呼ぶようになった)として語る快感を「減点パパ」で学習し、実践していただけで今も収まっていません。
そして何よりも「寄席芸人伝」は元々小坊主時代に師僧と一緒にテレビの演芸番組を見て落語好きの種が播かれていたため水と肥料を与えられたようなもので、蒲郡高校の生徒会長の時には文化祭で先代の三遊亭円楽師匠を招聘しました。さらに大学時代は落語研究会(おちけん)の同級生からアドバイザー扱いされるほどの落語通になりましたが、野僧は学資を稼ぐための肉体労働が忙しく、同級生から話を聞いた上級生が「取扱いに困る」と敬遠したようで勧誘は受けませんでした。NHKは番組化しないものでしょうか。
非常に多くの影響を与えていただいたことに心から感謝してご冥福を祈ります。合掌
- 2021/12/15(水) 14:30:20|
- 追悼・告別・永訣文
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