「玉城美恵子、よく来たな。待ちかねていたぞ」意識を失いながら苦痛だけは感じて悶え苦しんでいた美恵子は漆黒の闇の中に紅い灯りが点った空間に投げ出された。空間を震わせるように響いてきた声に顔を上げると正面の台の上には昔の琉球国王のような装束を着た赤い顔の男が座っていた。両脇には似たような装束の男たちが机の向うに並んでいる。美恵子は夢を見ているのかと戸惑いながら周囲を見回すと灯りの光が届くところ以外は漆黒の闇で、壁や天井が確認できないほど巨大な空間のようだった。かすかに川の流れの音が聞こえてくる。
「閻魔さまの前では手をついて頭を下げろ」その時、背後から恐ろしげな声が聞こえ、背中を杖で突かれて前に倒れ伏した。床は陶板を敷き詰めてある。視線を下げたまま振り返ると伸びた爪の先が尖り、脛に剛毛が生えた巨大な素足が見えた・
「無駄なことはよせ、この女が礼儀を弁えるのは客にだけだ。今は人間が作った細菌兵器で死んだ人間が溢れてくる。後がつかえているから裁きを始めよう。奪衣婆(だつえば)」「はい、ただいま」閻魔と呼ばれた王が暗闇に声をかけるとかすれた女の声が返事をして素足の足音が近づき、100歳はとうに過ぎている老婆が現れた。老女は背後に流している白髪を床に引きずり、はだけた胸には浮き出たあばら骨から垂れた乳房が揺れている。
「死に装束にしては随分と汚れてるね。上は血と胃液に痰だらけ、下は尿と糞だらけ、さぞや重かろう」奪衣婆はパジャマの襟を掴んで美恵子を引き起こすと力任せに引き剥がし、手で肩を突いて仰向けに倒してズボンを脱がせた。
「こんなに汚れてちゃあ抱えていく気にもなりゃしない。それにしても重たいねェ」奪衣婆は尿と下痢をした便で汚れた下着はそのままにして左手にパジャマを提げて閻魔王に頭を下げると裸にされた美恵子を残して闇の中へ消えていった。これから三途の河原に立つ衣領樹と言う大木の下で待っている夫の懸衣爺(かけえじい)に美恵子の死に装束になったパジャマを渡して枝にかけさせる。すると死に装束は戦前に犯した罪業の重さになって枝をしならせる。2人はそれを見て罪業の重さを計るのだ。それが昔の死に装束が薄い浴衣だった理由でもある。
「枝が折れそうだな」「予定通り地獄行きだね」懸衣爺と奪衣婆夫婦が美恵子の罪と行き先を確認している頃、閻魔王は背後に立っている獄卒の鬼に命じて美恵子を巨大な鏡の前に移動させた。鏡には50歳を過ぎた美恵子の汚れた下着だけを残した裸の全身が映っている。
「それは淨玻璃鏡(じょうはりのかがみ)と言ってお前の生き様(いきよう)と周囲に与えた影響、周囲がお前に抱いていた想いが映し出される」「私は悪いことなんかしてないさァ。回りが私を邪魔者にしたのさァ」美恵子の抗弁が終わる前に淨玻璃鏡には記録映像のような場面が映り始めた。闇の中から音声も響いてくる。最初は若い頃の両親が新生児を抱いている光景だった。
「目ばっかり大きくて不細工な娘だな」「あらッ、貴方に似て可愛いじゃない」「俺に似てるか。だったらチュラカーギ(美人)になるな」両親の顔は喜びに溢れている。美恵子は幼い頃から「両親は男子を望んでいたのに期待を裏切って女だった自分は必要なかった」と思っていた。しかし、松真が生まれると父は常に連れ歩くようになり、母も成績が良い姉2人と松真を大切にして劣等生だった美恵子には冷淡だったことを思い出して誤解を認めることはなかった。
「また漢字3文字の名前なの」「この子は俺に似て馬鹿そうだから字の練習になるように一番難しい漢字にしないとな。美恵子でどうだ」「日出子、夕紀子に比べれば画数は多いわね」今度は命名の場面になった。それでも美恵子は姉弟に比べて画数が多く、署名に手間取ることを逆恨みして、父が酔って口にする「ブスな赤ん坊だったから美に恵まれるように美恵子にした」と言う戯言を信じていた。したがってここでも反省はしなかった。
「もしもし、モリヤ候補生です。休暇中に申し訳ありません。誠に申し上げにくいことなんですが・・・」小中学高校時代の成績不振に悩む両親と激励の叱責に反発する美恵子、授業料が高額な理容学校に進学したため仮眠を削って個人タクシーの営業に出る父、モリヤと出会って結婚するまでの場面の後、モリヤが防府のアパートで美恵子が無断で理容師の仕事を始めたことを幹部候補生学校の区隊長に電話で報告している光景になった。背中を向けて電話しているモリヤの深刻な顔は初めて見るが、足元にまとわりつく淳之介を手で押しやっている自分に「昔は理容師の仕事に理解があったのに」「私の才能を潰す気」「誰が幹部になってくれって頼んだの」と不満を募らせていたことを思い出して怒りが込み上がってきた。すると鏡の映像は陸上自衛隊の制服を着たモリヤが会ったことがない自衛官たちに囲まれて厳しく叱責を受けている場面に変わった。声も聞こえるが、モリヤは「私の落ち度です」と繰り返すだけで日頃の雄弁さは封印していた。
「この女は罪ではなく業が果てしなく深いようです」美恵子が一切後悔・反省をせずに勝手な逆恨みだけを燃え立たせているのを見ている閻魔王に歩み寄った奪衣婆が報告した。

聖衆来迎寺・閻魔王庁図
- 2021/12/16(木) 14:33:50|
- 夜の連続小説8
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