連合軍は1945年2月13日のドレスデンへの空襲で爆弾によって屋根を破壊した後、焼夷弾で内部から火災を起こす戦術を検証し、ドイツの都市空襲で常用しましたが、同様に昭和19(1944)年の明日12月18日に木造家屋が多い日本の都市空襲では爆弾による破壊よりも焼夷弾を撒き散らして大規模な火災を発生させる方が戦果が上がることを確認して本土の空襲に応用した漢口大空襲が行われました。なお、漢口(ハンカオ)はさだまさしさんの名曲「フレディ・若しくは三教街」の舞台ですが、現在は嫌なことで世界の注目を集めた武漢市に含まれています。
「フレディ・若しくは三教街」は国籍不明のヨーロッパ系外国人(日本の占領後も残っていたので多分ドイツ系かロシア系)の若者と知り合った日本人女性の思い出話の形を採っていますが、漢口に住んでいたさださんの母親の体験談を元にしているそうです。
漢口は揚子江と夏水=後の漢水が合流する水運の中継基地として古くから栄え、明朝末期から清朝初期=日本の江戸時代初期には4大商都と呼ばれるようになりました。そして1856年に始まったアロー戦争で結ばれた天津条約でイギリスの租界が建設され、続いてロシア、フランス、ドイツ、かなり遅れて日本の租界も開かれて中国内陸部では有数の国際都市になったのです。
ところが日本軍が中国内陸部にまで戦線を拡大していた昭和13(1938)年6月に国民党軍が進撃を阻止するため揚子江の激流の堤防を破壊し、大水害によって数十万人の文民が犠牲になったことを受けて日本軍は漢口と広東の攻略を決定し、同年8月22日から攻撃を開始して10月27日に占領しました。これ以降は中国内陸部の戦略拠点として多くの部隊が集結し、劣勢に陥っていた国民党軍を撃破していましたが、蒋介石政権を連合国に加えていたアメリカとしては放置できなくなり、中国南部の成都に建設した航空基地に最新鋭機のB-29を配備すると現地指揮官兼国民党軍軍事顧問は大規模な空襲への参加を要請しました。しかし、B-29は昭和19(1944)年6月16日の八幡空襲を皮切りに満洲や台湾への空襲を主任務にしていた上、燃料や爆弾、銃弾をヒマラヤ越えで空輸していたため出撃は2週間に1回が限度でB-29飛行隊の指揮官は拒否しました。ところが新任のアメリカ軍中国・インド・ミャンマー方面軍司令官は中国戦線での日本軍の優勢を阻止する必要からB-29の作戦投入を命令し、航続距離を延ばすため爆弾ではなく焼夷弾を搭載して94機(焼夷弾を搭載したのは84機)が出撃したのです。
この攻撃に対して日本軍も戦闘機を離陸させて迎撃しましたが主力は南方戦線に投入されていて絶対数が少なく護衛の最新鋭戦闘機・P-51によって多くが撃墜されました。
早朝から午後2時30分頃まで続いたこの空襲で漢口には500トン以上の焼夷弾が投下され、中国人文民の居住地域を含む市街地の50パーセントが炎上し、3日間にわたって燃え続けて日本租界は焼滅しました。
「フレディ・若しくは三教街」の最後は「そんな夢さえも奪ったのは 燃え上げる赤い炎と飛び交う戦闘機」ですがこれはアメリカ軍の戦闘機の機銃掃射でしょう。
- 2021/12/17(金) 13:27:18|
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