昭和19(1944)年12月18日の漢口大空襲で飛行科志願兵=2等兵として入営しながら卓越した飛行技量と円満・剛毅な人間性で少佐にまで昇任し、第2次世界大戦末期の大陸戦線で勇名を馳せた若松幸禧(ゆきよし)少佐が戦死しました。
若松少佐は明治44(1911)年に現在の鹿児島県川内市で生まれ、昭和5(1930)年に陸軍の飛行科志願兵としてまだ複葉機で部隊としての体裁が整っていなかった飛行第3連隊に入営しました。昭和7(1932)年に下士官として操縦学生課程を修了すると所沢と熊谷の飛行学校に助教として配属され、昭和13(1938)年には陸軍航空士官学校に入校して卒業に任官しました。そして昭和14(1939)年9月にノモンハン事件が勃発すると加藤建夫大尉が率いる飛行第64戦隊に配属されて前線に向かいますが、到着して数日後に停戦になったため出番はありませんでした。その後は中国戦線を転戦し、昭和15(1940)年末から明野飛行学校で中隊長教育を受けて卒業後は飛行第85戦隊に配属され、昭和17(1942)年に大尉に昇任して第2中隊長になりました。
その頃、飛行第85戦隊は2式戦闘機・鍾馗を使用するようになり、国民党軍の義勇軍の名目で参戦していたアメリカ軍のP-40と対戦しましたが、2式戦闘機・鍾馗は戦後にアメリカ陸軍が実施した日本軍戦闘機の比較試験では「最高のインターセプター(迎撃機)」と評価され、零式艦上戦闘機を設計した三菱重工の堀越次郎防衛大学校教授などとは比較にならない中島飛行機の天才・糸川秀夫東京大学教授が「最高の傑作」と言っている名機なので全く寄せつけませんでした。また若松少佐は空中戦の間、無線を点けっ放しにして実況中継まで流し、地上に残っている搭乗員や整備員に戦況を知らせて士気を鼓舞したと言う逸話が残っています。そのため大陸戦線で大活躍する若松大尉には国民党軍から2万元の賞金を賭けられて、後に5万元まで吊り上がりました。
続いて飛行第85戦隊は陸軍が昭和19(1944)年10月の連合艦隊のフィリピン・レイテ湾突入を支援するために派遣していた4式戦闘機・疾風のうち9機を装備することになり、若松大尉も乗り換えました。4式戦闘機・疾風は戦時中に対戦したアメリカ軍からも「最高の日本軍戦闘機」と絶賛されていて若松大尉も「スピード、上昇力、旋回性、航続距離の全てが2式よりも良い」「無線も改良された」と高く評価しています。実際、第2次世界大戦中の最高傑作戦闘機と自他共に認めるアメリカ軍のP-51・ムスタングと対戦した時には「赤子の手をひねるがごとし」と日記に書き残していて、若松少佐の公式撃墜機数18機は全て戦闘機であり、半数はP-51・ムスタングでした。
この日、漢口では夜明けと同時に成都の基地を離陸したアメリカ軍のB-29爆撃機とP-51戦闘機200機による空襲を受けていて、第1波が終了してアメリカ軍が燃料と焼夷弾の補給に戻っている間に日本軍も給油と弾薬補給を実施していたのですが、アメリカ軍の第2波の方がわずかに早く、若松少佐は離陸中に10機のP-51の攻撃を受け、武昌第2飛行場から1キロに墜落して戦死しました。33歳でした。奥さんとの間に男女の子供がいましたが娘の春笑さんは昭和15(1930)年末(=明野入校と重なる)に2歳で亡くしています。
- 2021/12/18(土) 14:21:08|
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