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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

12月23日・A級戦犯・板垣征四郎大将の死刑が執行された。

昭和23(1948)年の明日12月23日の午前0時1分に極東国際軍事裁判所=東京裁判におけるA級戦犯の1人・板垣征四郎大将の死刑が執行されました。辞世は日蓮宗の信者らしく「今はただ 妙法蓮華と 唱えつつ 鷲の峰へと いさみたつなり」でした。ちなみに日蓮宗は「鷲山(りょうぜん)浄土に往生する」と説いています。
板垣大将は明治18(1885)年に現在の岩手県岩手郡岩手町で戊辰戦争終結後に秋田藩攻めの戦犯として江戸に送られた南部藩士を祖父に気仙郡長と女学校長を父として生まれました。明治30(1897)年に旧制・盛岡中学校(5年制)に入学すると3学年上には後に海軍大臣・総理大臣になる米内光政大将、1学年上には日本語学者の金田一京助博士や「銭形平次」の作者の野村胡堂さん、及川古志郎海軍大将、1学年下には歌人の石川啄木さんがいましたが、板垣大将はこれらの先輩や後輩たちとは別に明治32(1899)年に仙台陸軍幼年学校に入営して陸軍軍人の道を歩み始めました。
日露戦争が始まった明治37(1904)年に卒業・任官して出征しますが、無事に帰還してからは平時の軍隊らしい武人の本道からかけ離れた経験を積み、謀略の第1人者として頭角を現していくことになりました。大正5(1916)年に陸軍大学校を卒業して翌年に陸軍参謀本部所属で昆明駐在になると大陸の実情を詳細・綿密に調査し、大正8(1919)年には中支派遣群司令部の参謀になり、大陸で暗躍を始めたのです。中でも関東軍高級参謀だった昭和6(1931)年に石原莞爾作戦参謀(山形県鶴岡市出身)と共謀して柳条湖事件(関東軍が満州鉄道を爆破して国民党軍の犯行として先端を開く口実にした)を起こして満州事変を発生させたことは東京裁判でも戦争犯罪の平和に対する罪(この訴追を受けた者がA級戦犯になる)として告発されています。ちなみに共犯者の石原中将は連合軍が日本版ヒトラーと位置づけていた東條英機大将(南部藩の能役者の末裔)と対立して予備役に編入され、戦時下でも公然と批判していたため逮捕を免れています。
この満州事変の結果、日本軍は昭和7(1932)年に満州族の清朝の最後の皇帝・溥儀を立てて満洲国を成立させましたが、板垣少将はその中心的立場で万事を指揮して日本と言う国家や帝国陸軍ではなくその一部隊に過ぎない関東軍が国家を成立させ、事実上の統治を指揮すると言う世界史上例がない壮大な謀略が展開されました。
その後は昭和13(1938)年に中央に呼び返されて陸軍大臣に就任しますが、翌年には大陸に戻り、昭和20(1945)年4月に第7軍司令官としてシンガポールに赴任してここで敗戦を迎え、A級戦犯として逮捕されて東京に護送されました。
東京裁判では土肥原賢二大将と共に「1928年から1945年の侵略戦争の共同謀議」「満州事変における中華民国への不当な戦争」「アメリカへの侵略戦争」「イギリスへの侵略戦争」「オランダへの侵略戦争」「ソ連に対する張鼓峰事件の遂行」「ノモンハン事件」「1928年から1945年9月2日までの戦争犯罪行為」の最多の罪で訴追されていますが、極悪非道な策略を弄した参謀・辻正信大佐が「唯一心から崇敬していた人物」とされていますから罪状の適否とは別に至極当然な死刑判決だったのでしょう。
  1. 2021/12/22(水) 14:06:50|
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