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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

12月25日・是非とも祭日に!大正天皇が崩御した。

大正15(1926)年の12月25日はカソリックとプロテスタントのキリスト教国では間違ったイエスの降誕祭(実際は昭和の陛下が崩御された1月7日)ですが日本では大正天皇が崩御した命日です。つまり大正元年は6日間しかありませんでした。
本来、過去の天皇の祭日の先帝祭は命日に変更されるのですが、大正天皇が病弱だったため明治天皇の7月29日の命日(即位は翌日)では酷暑の中の宮中祭儀と式典になるため慶応と合わせて45年間国民に親しまれてきた天長節の11月3日に移動し、その異例の措置は4月29日の「昭和の日」でも踏襲されました。ちなみに大正天皇はご自身の天長節でも本来の8月31日では同様の心配があるため10月31日に変更されていました。
大正天皇は明治12(1879)年の8月31日に東京の青山御所内の御産所で明治天皇の男女15人の子供の中の5番目で唯一生き残った男子として生まれました(女子も生育したのは4人のみ)。生母は明治天皇の侍女で手がついた柳原愛子(なるこ)さんで、明宮嘉仁(はるのみやよしひと)と命名されました。
大正天皇は生後1年以内に2回以上脳膜炎と思われる断続的な嘔吐や痙攣、意識不明などの症状で重篤に陥って極めて虚弱でしたが国難に際して公武合体による挙国一致を強く求めていた孝明天皇を毒殺してまで討幕を強行し、国家権力を握った明治政府の首脳たちがようやく生まれた皇位継承者を気遣う温情を持ち合わせているはずがなく将来の天皇、何よりも大元帥としての英才教育を準備しました。こうして少年期を迎えると本人の適性や志向を考えることなく最高水準の一般教養と帝王学としての専門知識の詰め込み教育と軍事知識と体育や教練が始まり、その結果、体調が悪化して療養している間に勉強が遅れ、回復すればその分を取り戻すために更に過酷な詰め込み教育を受けて体調を悪化させる悪循環の中で成長することになりました。
確かに大正天皇は実像とは別に神格化されている明治天皇や実際に現人神だった昭和の陛下と比較されて凡庸や虚弱と揶揄されることが多く、時には風説に過ぎない奇行を取り上げて「精神異常だった」と断定する歴史研究者もいますが、幼い頃に農家に預けられて真っ黒に日焼けしていたことから「黒姫」と仇名されていた九条家の姫との間に4人の健康な男子を儲けていて、明治天皇が他の男子の誕生を諦めて明治22(1889)年に皇太子になってからは沖縄県を除く全ての道府県を巡幸しただけでなく、韓国王室の即位礼に出席して皇室史上初めて海外を訪問した皇太子になっています。
また興味を持ったことに熱中する性分だったようで伝統的な和歌よりも漢詩を好んで多くの秀作を残し、フランス語や韓国語に凝って日常会話で用いるなど大元帥としての軍事知識と体育や教練を強要されなければ庶民の気持ちを理解する気さくな庶民派天皇になったかも知れません。実際、富士山麓での狩猟中にはぐれ、通りがかった青年に案内されて立ち寄った民家でお茶漬を御馳走になったりしています。
折角12月25に崩御されたのですからこの日をデモクラシーが花開いた大正の先帝祭の祭日にすれば、欧米(韓国も)の祝日が大正天皇の遺徳を偲ぶ日になります。
柳原愛子生母・柳原愛子さん
  1. 2021/12/25(土) 15:32:04|
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