「モリヤ2佐は今年の7月1日付で定年退官になるんだが」2021年に入って間もなく陸上幕僚監部人事教育部の補任課長の1佐から国際電話が入った。日本との8時間の時差から見て課業終了直前に私が出勤する時間を見計らって電話してきたらしい。
「私は警務隊本部付なので幕から直接電話を受けるのはいささか僭越ですな」そう言う私自身は陸上幕僚監部の法務官室で勤務していたので古巣でもある。
「モリヤ2佐の場合、内局と外務省との調整を伴うから私が担当することになったんだよ」事情を説明するどこか迷惑そうな口調に私はこの課長が12月に佳織を目黒の教育訓練研究本部の教育本部長に移動させた担当者であることを察知した。佳織は前川原の幹部候補生学校長で勧奨退職してハワイに帰り、日系人の日米友好団体の理事長に就任する予定だったのだが、師団が旅団になって将補の配置先が増えたことによる人材不足に悩むこの課長に説得されて応諾したようだ。その時、佳織は交換条件に私の1佐への昇任を要求したらしいが「大学中退で一般(部外)幹部候補生に合格させたのは特例処置だった」「幹部候補生学校入校中に服務規律違反に類する問題を起こしている」「離婚による特殊事情で人事措置を受けている」「2佐になったのは司法試験合格による特例昇任だ」などの理由を並び立てて「退官日付の特別昇任まで拒否した」と梢への電話で怒っていたらしい。それにしても美恵子が無断で防府市内の理容店に就職した軽率な行動は定年にまで及ぶ重大な失点になった。遺骨は無事に届き、南城市の玉城家の墓に収められたそうだが冥福を祈ってやる気にはならない。日曜日の朝課では有縁者の1人として名前を詠み上げて供養を勤めているがこれも出血大サービスだ。
「ところで退官後は日本に帰ってくるつもりなのかね」これが本題のようだ。私が国際刑事裁判所の検察官に指名されたのは当時のオバマ政権が在日アメリカ陸軍の法務官から「陸上自衛隊に司法試験に合格した妙な弁護士がいる」との情報を得て強く推薦したことが背景にある。したがって陸上自衛隊を退官すればこの異例の人事も白紙に戻るのだが、実はこちらでもモレソウダ首席検察官とこの問題については話し合っていた。
「私としては日本の検察官任官と沖縄での弁護士の開業を考えていましたが国際刑事裁判所からは現在の職務を継続して検察官に専任して欲しいと言われているんです。今のところあれほどの実績を上げていた加倍首相を退陣に追い込むような日本に帰る気にはなりません」「個人の今後を考えるのに政治の問題が影響するとは驚いてしまうな。流石は国際刑事裁判所で活躍している我が法務幹部だ」オランダで見ていても加倍政権は就任以来、国際情勢を利用しながら敗戦後の日本が置き去りにしてきた安全保障上の諸問題を処理し、新型コロナ・ウィルス感染症では世界の第一人者である戸身氏に全幅の信頼を寄せて医療崩壊を避けることを第1義とする独自の対策を堅持して世界でも最低水準の死亡者数を維持していることは賞賛に値する。そんな加倍政権を日本のマスコミは下らない粗探しで足を引っ張り続け、2020年の9月に持病の悪化を理由に退陣に追い込んでしまった。そんな私の非難を補任課長は「驚いてしまう」と言ったが「呆れてしまう」の言い間違いだろう。むしろ「あの妻にしてこの夫ありき」と言いたかったのかも知れない。
「実は外務省からも国際刑事裁判所がモリヤ2佐の職務継続を要望してきているとの連絡が入っていて、陸幕としては先ず本人の意向を確認しようとしたんだ」「極めて陸上自衛隊的対応ですね」私に言わせれば陸上自衛隊の1科(総務人事)系統が本人の意向を確認するのは組織の常識を押しつけるための材料を下調べしているだけで、今回は私が望郷の念にとらわれて帰国を熱望した時の説得を考えていたに違いない。その意味では安堵したはずだ。
「つまりモリヤ2佐には再就職の援護は必要ないと言うことだな。ところでモリヤ将補は退官後はハワイに帰る予定だって言っていたが、モリヤ2佐は日本で検察官に任官するか沖縄で弁護士を開業する予定だって言ったね。定年後も別居生活を続けるのか」「モリヤ閣下とは結婚以来、同居したのは5年程度ですから別居の方がはるかに長くて空中分解が定型になってるんですわ」補任課長の耳にも私と佳織の夫婦関係が有名無実になっていることは届いているのかも知れないがここはあえてとぼけた。
「そう言えば日本は海外からの入国者は受け容れているんですか。オリンピックも延期になりましたが。私の退官日はオリンピックの開会式よりも前ですよ」「そうだな。今のところ2週間の隔離経過観察が必要だが間もなく予防ワクチンの接種が始まるから緩和されるかも知れない。やはり上司に申告、退官者紹介で見送られたいよな」「いいえ、業務多忙でそれどころではありません。在オランダ大使館の防衛駐在官に代理申告か、オンラインでお願いしたいものです」私の希望に補任課長が黙ってしまった時、電話の向こうで国旗降下のラッパが鳴った。
- 2022/01/01(土) 15:51:24|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0