2021年3月、コートジボワールのバグボ前大統領の無罪判決の確定公判が開かれた。バグボ前大統領の裁判自体は「人権に対する罪」が立証できず2019年1月15日に無罪と拘束解除=釈放の判決が出ているが、告発した関係国が納得しないで追加で提出した証言と証拠の審理が継続していたのだ。私とモレソウダ首席検察官は無罪判決を受け容れているがリミッド次席検察官だけはヨーロッパ人の視点でこの問題を捉えているため孤軍奮闘していた。
傍聴人席は新型コロナ・ウィルス感染症の流行防止対策で一般人の入場が認められず、広いロビーに大型の画面を設置して裁判の中継映像を視聴することになっている。それでもフランスの人権団体が大挙して入場を申し込んだので安全な距離を置いて並べてある椅子には殺気立った雰囲気のマスクをはめた女性たちが陣取り、大声で話し込んでいた。
「モリヤ中佐」私が検察官の指定席として画面の正面の最前列に座っていると背後から若い女性に英語で声をかけられた。振り返るとやはりオージェ大尉だった。今日のオージェ大尉は軍服で、極左の日本とは逆に保守系右派に属するキリスト教系人権団体の女性たちは軍の士官に対する敬意を払って特等席を譲ったらしい。
「軍服なら国外移動も特例扱いになるのかな」「いいえ、やはり2週間の宿泊経過観察を求められました。ただ部隊の上官もコートジボワールに派遣されていた私がこの裁判に関心を寄せていることを理解してくれているので軍務に準ずる扱いを受けることができました」それでもフランスに再入国する時にも2週間の宿泊経過観察を受ければ通算1カ月の不在になってしまう。オージェ大尉は司令部勤務なのでいわゆるテレワークでも対応できるのかも知れない。
「それは我がフランス陸軍の軍服ですか」オージェ大尉は座ったまま振り返った私に質問してきた。今日は安全保障理事会常任理事国として圧力をかけ、我々独自の調査を経ることなく告発を強制したフランスの敗北を当事者として見届けようと同じ色とデザインの陸上自衛隊の旧々制服を着てきた。その意味ではペアルックになっている。
「これは今から50年前に採用されたグランド・ジエータイ(陸上自衛隊)の制服なんだ。20年後にアメリカ式の緑色の制服に変わってしまったが、こちらの方が品が良いだろう」本当は先日、市ヶ谷の美玉から届いた航空自衛隊の制服にしたかったのだが、日本の新聞やテレビが報道すれば定年前に余計な問題を起こすことになるので控えた。それにしても20数年ぶりに袖を通して鏡で見たエア・フォース・ブルーの制服はやはり茶や緑の陸上自衛隊よりも似合っていた(現在の制服は着たことがない)。特に3種夏服は梢が感激して抱きついてきたほどだった。ただし、私個人としては入隊した頃の灰色の第3種夏服の方が好きだ。
「それで今日の判決では逆転勝訴の可能性はありますか」約1間(いっけん)の距離がある上、慣れないマスクをしているためオージェ大尉は話しにくいらしく、何時もは盛り上がる軍服・制服談議は早々に切り上げて本題に入った。しかし、周囲の人権団体の女性たちも英語は理解できるらしくオージェ大尉の質問を耳にすると一斉に険しい視線を浴びせてきた。1間の距離を保たなければならないため近寄って小声で話すことはできない。仕方なく私は頭の中で日頃の単刀直入な言動とは逆の回りくどい回答を組み立てた。単純明快な英語は演説用、議論用、口論用と言われているだけに回りくどい言い方には意外に苦労した。
「我々としては新たに提供された証拠と証言を最大限に活用して最善を尽くしたよ。君もウチのリミッド検察官の熱弁を見ただろう。彼は法律学者出身だからあまり弁論は得意じゃあないんだが、私がここに着任する前にコートジボワールへ現地調査に赴いて大量殺害の悲惨な現場を見てきたから使命感を燃え立たせていたんだ」「私も新型コロナが発生する前には何度も傍聴に来ていますからあのベルギー人の検事が弁護団と論戦を交わしていたのは知っています」私の英語力では日本語的に難解な表現で理解を困難にする手法は見つからないので趣旨を外して胡麻化した。オージェ大尉は「リミッド次席検察官がコートジボワールに行ったことがある」と聞いて意外そうな顔をしたが、法廷での熱い弁論を思い出してうなずいた。
「以前、モリヤ中佐は検察官でなければバグボ前大統領の弁護に当たりたいと言ってましたが、その気持ちは今も変わりませんか」「君にそんなことを言ったかな。仮に言ったとすれば『ここに来るまでは弁護士だったからそちらの方が慣れている』と言う意味だろう」多くのフランス人が得意とする鎌かけの質問も無事に回避した時、裁判長が木槌でガベルを打ち鳴らす音が響き、私も前を向いて画面を注視した。
「これよりコートジワール共和国前大統領、ローラン・クードゥ・バグボに対する判決を申し渡す。判決理由・・・」極刑か無罪を意味する「主文後回し」と判り、傍聴人たちは失望の溜息をついた後、それぞれの表現方法で怒りを露わにした。

モリヤ曹侯生
- 2022/01/04(火) 15:35:16|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0