「貴方、徽章のつけ替えが終わったわ。これで良い」やはり私と梢はオランダに帰ってから2週間の自宅待機になったが、7月一杯合計31日間の不在はヨーロッパ人並みの夏季休暇の先取りのようなものだ。その自宅待機中に市ヶ谷の美玉に注文していた刺繍の徽章が届き、梢がミシンで迷彩服の階級章と付け替えてくれた。陸上幕僚監部法務官室のままだった名札も「ICC(国際刑事裁判所)」と「MORIYA」の横文字に変わっている。
「これは国際刑事裁判所のマークでしょう。こっちは何」襟は2等陸佐の階級章が縫い付けてあった箇所に国際連合の月桂樹で囲まれた地球を司法を象徴する天秤に替えた国際司法裁判所のマークに換えたが、胸の格闘指導官徽章の上の弁護士徽章も中央の赤い丸から上下左右に白の菊の花弁が広がっている徽章に付け替えさせた。確かに梢は初めて見るはずだ。
「これは秋霜烈日と言って日本の検事徽章だよ。国際的には通用しないけど日本人の国際刑事裁判所の検察官と言う立場を明示しようと思ったんだ」私自身は日本の法務省から検察官の身分を与えられていないのでこの徽章を装着する権利はないが、この迷彩服を着用するのは紛争地帯への現地調査に限定されるので日本の軽犯罪法第1条15号は適用されない。
「弁護士のひまわりは私が就職した頃のドラマの題名で憶えてるけどシューソーレツジツは知らなかったわ」「ドラマは『ひまわりの詩』だな。大学の民法の教授が見るように勧めたけど親父と妹が『固くてつまらん』って言って見られなかったんだよ」「それでシューソーは何」私がモリヤ家での嫌な思い出に引っ掛かると梢が説明を催促した。それにしても妹が「高校の同級生が面白いと言っている」と訴えれば喜んでチャンネル権を譲る父親は私が大学の教授に「法曹界を描いたドラマだから」と勧められた番組は拒否したのは価値観を誤っているとしか思えない。正しく天秤にかけてみたくなる。
「秋霜烈日と言うのは検事の職務が秋に霜が下りた冷え込みや夏の苛烈な日差しの厳しい気候のようなものであると言っているんだが、本当は清廉潔白で偏りのない公平な姿勢を表現しているらしい。つまり名称と意味は後付けだな」これも大学の講義で仕入れた知識だが、教授は判事の「八咫の鏡に裁の漢字」、検事の秋霜烈日、弁護士のひまわりを説明しながら「この大学の卒業生で司法試験に受かった者はいない。君たちの中から合格者が出ることを願っている」と言っていたが、まさか中退した私が実現するとは思っていなかった。
「それで貴方はアフガニスタンに行くつもりなのね」「バイデン政権は8月31日の期限までにアメリカ軍を撤退させるだろう。トランプ政権と和平合意を結んでいるタリバーンは混乱なく政権移譲するように努めるはずだが、イスラミック・ステーツの連中が混乱に乗じてアメリカの傀儡政権に与した市民を虐殺する可能性が高い。おまけに欧米のマスコミはタリバーンとイスラミック・ステーツ(IS)を区別することなく同一視しているから撤退時にISが市民に危害を加えればタリバーンの犯行と断定するだろう。ワシはその実態を現地で確認したいんだ」これまでアフガニスタンに入国するにはパキスタンからの陸路しかなかったが、今回は陸上自衛官と言う肩書がなくなった分、政治的な制約を気にすることなく国際刑事裁判所の検察官としての職務権限を存分に行使できる。実は6月の段階でNATO軍司令部の法務官を通じてアメリカ輸送軍の航空輸送部隊に接触し、カブール空港に向かう輸送機に同乗させてもらう手筈になっている。ただし、現地に赴く目的を考えれば撤退による混乱が収束するまで戻ることはできず片道通行になる可能性も決して低くはない。
「私は・・・無理ね」「タリバーンが復権するとなれば肌を露出して街を闊歩していたムスリマ(女性のイスラム教徒)たちも仕舞っていた民族衣装を着込んでブルカを被るんだろう。お前がそんな服装をしてイISの連中に見つかれば敵対者と疑われて捕獲されかねない」私の説明に梢は涙ぐんでうなずいた。私の胸には梢の深い無念な思いが伝わってきた。
「戦闘帽は桜を国際刑事裁判所のマークに替えて、ヘルメットの迷彩カバーの前後にも付けるのね」「アフガニスタンでは国際連合は2代目ブッシュ政権が侵略の正統性を主張したのに合意した共犯者と思われているから本当は危険なんだ。それでも戦闘員ではなく文民としての所属を明示しておかないとジュネーブ条約の保護を受けられないことも考えられる」私の返事を聞いて梢はテーブルに置いていたヘルメットのカバーをはがした。このヘルメットはコートジボワールの現地調査で危険を実感した私が陸上幕僚監部法務官室の補給係の陸曹に員数外を送ってもらったものだがスリランカ、フィリピン、前回のアフガニスタン、旧ユーゴスラビアなどで使用して安心させてもらった。幸いなことにまだ弾痕はない。
2週間の経過観察を終えて保健所の許可を得た私は作務衣を着て出勤し、モレソウダ首席検察官に業務への復帰を申告した。その場でアフガニスタンでの現地調査を命ぜられた。
- 2022/01/09(日) 15:04:20|
- 夜の連続小説8
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