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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

1月18日・江戸時代に国際人になった庶民・音吉の命日

日本では年号が明治に替わる1年前の慶応3(1867)年1月18日は遭難した一介の水夫から日本人として初めてイギリスに帰化した国際人・音吉さんの命日です。
音吉さんは文政2(1819)年に現在の知多郡美浜町で生まれました。余談ながら文化10(1813)年に伊豆沖で遭難し、記録が残っている中では世界最長の484日間の漂流の末に太平洋を横断した小栗重吉さんも三河湾に浮かぶ佐久島の出身です。
天保3(1832)年に米や陶器を積んだ宝順丸で鳥羽を出航して江戸に向かいましたが、遠州灘で暴風に遭って遭難し、14カ月間の漂流の末にアメリカ西海岸の現在のワシントン州のフラッタリー岬に流れ着き、生き残った音吉さんと久吉さんに岩吉さんはネイティブ・アメリカンに救助されたものの奴隷にされ、その後、イギリス人に売られると船に乗せられてロンドンに連れていかれました。この時、日本人としては初めて上陸を許可されてロンドン市内を観光しています。
当時のイギリスは中国のついでにオランダが貿易を独占している日本にも食指を伸ばしていて幕府に接触する口実としてこの漂流民を送り届けることにしました。そうして1835年12月にマカオに到着すると現地の貿易監督庁に中国語の通訳として雇われていたドイツ人宣教師に預けられ、聖書を日本語に翻訳して英語を学びました。これが初めて日本語への翻訳が完成した聖書で明治になって大いに活用されました。
1837年3月にフィリピンに流れ着いた熊本県飽託郡川尻の漂流者の庄蔵さん、寿三郎さん、熊太郎さん、力松さんの4人が加わり、7月にアメリカの商船・モリソン号で江戸を目指すことになりました(これで地球を1周した)。ところが三浦半島では外国船討ち払い令による砲撃を受けたため引き返し、鹿児島に立ち寄って音吉さんたちが上陸して事情を説明したものの追い返されてマカオに引き返しました。これが蛮社の獄の原因になった渡辺崋山先生が慎機論で批判したモリソン号事件です。
マニラに帰った音吉さんは上海に渡り、ここでイギリスの商社で勤め始めてマカオで宣教活動も行っていたスコットランド人女性と職場結婚しました。しかし、この最初の妻と生まれた娘には先立たれています。
嘉永2(1849)年にはイギリス軍艦・マリナー号が江戸湾に向かうのに中国人と偽って通訳として同行し、嘉永6(1853)年にアメリカに続きイギリスが開国に向けた交渉を行った時にも今度は素性を明かして同行して幕府側の通訳だった福沢諭吉さんと接触し、長崎奉行から海外事情に詳しい者として帰国を勧められましたが断りました。
その後はシンガポールでドイツ人の父とマレー系の母の間に生まれた女性と職場再婚して、文久2(1862)年には妻の出身地のシンガポールに移住して、そこで幕府の文久欧使節団に同行していた福沢さんと再会し、元治元(1864)年には日本人としては初めてイギリスに帰化してジョン・マシュー・オトソンに改名しています。
音吉さんは息子のジョン・ウィリアム・オトソンさんに「帰国して日本人になって欲しい」と要望していて、明治12(1879)年に帰国して山本音吉になりました。
  1. 2022/01/17(月) 15:03:32|
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