寛永10(1633)年の明日1月20日に江戸幕府が始まるに当たり、各種法令=法度の大半を起草し、諸外国との外交交渉や対宮中政策を指揮して264年の天下泰平の基礎と屋台骨を構築して、その行政手腕と絶大な権力から「黒衣の宰相」とある面では賞賛、ある面では揶揄された以心宗伝(いしんすうでん)師が遷化しました。
宗伝師は永禄12(1562)年に足利幕府の重臣・一色家の次男として京都で生まれました。しかし、4歳の時に15代将軍・義昭さんが織田信長さまによって放逐されて幕府が崩壊したため約束されていた将来は消滅してしまい父は禅宗寺院では最も格式が高い南禅寺の貫主の下で得度を受けさせて僧侶としての将来を与えましたが、結果的に徳川幕府で御三家に次ぐ事実上の重臣筆頭になりました。
僧侶としては鷹峯(たかがみね)の金地院(こんちいん)の住持に嗣法し、真言宗醍醐寺派の三宝院に参学し、24歳の文禄2(1593)年には摂津国の福厳寺の住職になると1ヶ月後には相模国の禅興寺に転任しました。そうして関東に根を下ろしたと思わせて37歳で鎌倉五山の建長寺の貫主になると数カ月後に南禅寺の貫主になり、後陽成天皇から紫衣を受けました。この立ち回りは僧侶と言うよりも政治的で、慶長13(1608)年には相国寺の貫主の推薦で東照神君・家康公の招請を受けて駿府に赴き、開府から5年目の幕政に参画しました。
最初の仕事は明や朝鮮、タイやベトナムを始め渡来する西欧諸国との対外貿易での外交文書の作成と朱印状の発行事務で、卓越した漢文の語学力と交渉力で家康公の信任を獲得し、宮中と結びついて特権を振り回していた寺社の取り締まりを命じられると手の内を熟知しているだけに京都所司代に恫喝と実力行使を任せて着実に成果を上げ、この実績で武家諸法度や禁中並びに公家諸法度などの法整備を担当することになりました。
宗伝師が起草する法度は例えば寺社諸法度では僧侶に各宗派の戒律を守り、修行に専念することを義務づけ、それを宗派として監督する本山を頂点とする寺院の組織網を形成し、外から寺社奉行が行政の立場で取り締まると言う当事者も文句のつけようがない仕組みになっていて、この組織に檀家制度を加えることでキリシタン禁教取り締まりと現在の戸籍に相当する過去帳による住民の把握と記録を確立しました。
また禁中並びに公家諸法度によってそれまで朝廷の専断事項だった高僧への紫衣の勅許に幕府の承認を必要としたことで紫衣事件が発生して宗教界からは「天魔外道」と裏切り者扱いされることになったものの宮中と寺社の関係に楔を打ち込みました。
そんな宗伝師は家康公没後に朝廷から贈られる神号を一般的な吉田神道の「明神」とするか唐突に天海大僧正が持ち出した山王之神道の「権現」にするかの論争で敗れて幕政の中枢から去りますが、それは失脚したのではなく三河以来の戦国武将の重臣から世代交代した老中が成長し、幕府内の組織制度が確立したため世俗の行政からは手を引き、寺社諸法度の運用を中心とする宗教政策に専念したのです。実際、江戸城内に建立された金地院で遷化しています。
- 2022/01/19(水) 15:43:54|
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