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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

1月23日・「叫び」だけではない・ムンクの命日

1944年の明日1月23日は日本では抽象画の「叫び」だけが有名なノルウェーの画家・エドヴァルト・ムンクさんの命日です。
「叫び」はノルウェー語の原題「Skrik」の意味も「叫び」ですが、ムンクさんが友人と海岸沿いの歩道を歩いていて夕日が空を血のように染めて沈む光景を見て天を引き裂くような絶叫を聞いた場面を描いているので中央に描かれている人物の両手は口の前に筒を作って叫んでいるのではなく耳を押さえて、口を開いているのは恐怖におののいて茫然としているのです。
ムンクさんは1863年にノルウェー南部の内陸にあるロイデンで軍医の1歳年上の姉の下の長男として生まれました。1年後には現在のオスロへ転居して弟と妹が生まれますが、妊娠していた母が結核に感染し、下の妹を生んで間もなく亡くなり、母の妹=叔母に育てられることになりました。ところが母に代わって肉親として愛情を注いでくれていた姉も1877年に結核で亡くなり、この母と姉の死が後に死の床にある娘を看病する母親を描いた初期の代表作「病める子」になりました。
ムンクさんは成長すると画家を志望するようになり自己流で水彩や鉛筆で風景画や静物画を描いていましたが父に反対され、技師となるため工業学校に進学したもののリューマチを患って出席日数が足りずに中退し、父を説得すると本格的な油絵の画材を購入して1880年に王立絵画学校の夜間部に入ることができました。在学中はノルウェーでは一流の芸術家の指導を受け、若手芸術家と交流しましたが多くの展覧会で作品はことごとく酷評されただけでした。それでも親類の画家には才能を認められて1885年にパリへ短期留学するとサロンとルーヴル美術館に通って印象派のクロード・モネの作品を研究して色彩の表現や周囲に溶け込ませながら1点を強調する画法を学びましたが、帰国後に出品した作品はまたもや酷評を受けただけでした。さらに1889年に政府から奨学金を受けてパリに1年間留学しますが帰国後に出品した作品も酷評を受けたため、ムンクさんは評価には捉われず生活を超えた人間の本質を描く「生命のフリーズ」を生涯のテーマとすることを決意したのです。
こうして活動拠点をパリとベルリンに移して当時のヨーロッパの芸術界に蔓延していた世紀末の不安と陰鬱を表現する画法の影響を受けながら作品を発表すると高い評価を受け、ようやくノルウェーでも一定の地位を認められるようになりました。ところがアルコホール依存症を患って1909年に帰国すると母国の反応は冷淡で1989年までノーベル平和賞の授与式が行われていたオスロのクリスチャニア大学講堂の大壁画を描いた時も公募で1等に選ばれているにも関わらず大学当局が拒否し、一般国民の支持で製作が始まっても反対意見が続出し、50歳のムンクさんは心身ともに消耗し切ってしまいました。
晩年にノルウェーがナチスの占領下に置かれるとドイツでの活躍が長かったことで協力者と見なされ、没後にナチスの傀儡政権は親ドイツの芸術家として盛大な国葬を催しました。ムンクさんにとっての母国は野僧の愛知の実家の所在地のようです。
  1. 2022/01/22(土) 16:22:27|
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