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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

5月27日・日本海海戦

1905年(明治38)の明日5月27日に日本海海戦が行われました。
この海戦については最近、NHKで「坂の上の雲」が放映されましたが、我々の世代では1969年公開の映画「日本海大海戦」の記憶も鮮明でしょう。
NHKの方は原作が歴史小説の大家・司馬遼太郎先生のベストセラー長編小説と言うこともあり、分析評価も詳細、かつ適切ですが、映画の方は風聞に近い内容も含まれていて、それが真実と思われていることも多いようです。
例えば日本海軍は下瀬火薬を用いていたため、砲撃後も黒煙が上がらず連射が可能だったがロシア艦隊は黒煙で視界が遮られて不可能だったと言う話がありましたが、ピクリン酸を使う下瀬火薬は反応が過敏なため薬きょう内の装薬には向かず(暴発の危険性が高い)、同じく敏感な伊集院信管を装着した砲弾の炸薬として威力を発揮し、敵の艦橋や砲台を削り取るように破壊するため「鉋(かんな)」と呼ばれていました。
野僧は日本海軍のみが連続砲撃が可能だったのは、ロシアの艦艇は舷側が高いため、風通しが悪く、一方、イギリス式の日本の艦艇は空間が広く取ってある上、上部が解放されていたため排煙が早かったのではないかと推察しています。
実際、秋山真之作戦参謀が付け加えた「本日、天気晴朗ナレドモ浪高シ」の「浪高シ」を司馬先生は「波が高いと艦体は動揺し、射撃訓練が十分な日本側の有利を表している」と解釈していますが、旧海軍士官だった友人は「波が高いと舷側が低い日本の艦艇は見え難くなるが、図体がでかいロ助の艦艇は丸見えだ」と言う意味だと言っていました。
またバルチック艦隊が対馬海峡に来るか否かについて、映画では三船敏郎さんの東郷長官、テレビでは秋山作戦参謀が迷い悩んでいましたが、伝えられている両者の人間性から見て、これも司馬先生の見解の方が正しいと思います。
映画ではロシア艦隊の接近を沖縄の宮古島の漁民が発見し、無線設備がある石垣島まで手漕ぎの小船・サバニで知らせに渡った物語が感動的に描かれていましたが、テレビでは哨戒艇・信濃丸が発見して無線で通報したとされていました。
これも連合艦隊に届いたのは信濃丸からの方が早かったので史実として正しいのですが、ドラマとしては惜しい気もします。
野僧は宮古島出身の彼女の家を訪ねた時、わざわざ一緒に平良港近くにある顕彰碑を見に行きましたが、優等生だった彼女が「何でサバニが飾ってあるのか分らなかったさァ」と言っていたくらい忘れ去られつつあるのですから、沖縄県民の愛国的行動として、もう一度、描いて欲しかったです(彼女も野僧の説明で感激していました)。
サバニ
最後に「連合艦隊」についてですが、太平洋戦争の間、日本海軍の作戦は一貫して連合艦隊が行っていたため、現代の日本人は日本海軍=連合艦隊だと思っていますが、本来は常備艦隊(現在なら自衛艦隊)に各鎮守府(同地方隊)の艦艇を加えて臨時に編制するものです。だから終戦後にこのような名分が生まれたのです。

   連合艦隊解散の辞
二十閲月ノ征戦スデニ往時ト過ギ、我ガ連合艦隊ハ、今ヤ、ソノ隊務ヲ結了シ、茲ニ、解散スルコトトナレリ、然レドモ、我等海軍々人ノ責務ハ、決シテ之ガ為ニ、軽減セルモノニアラズ、此ノ戦役ノ収果ヲ永遠ニ全クシ、尚益々、国運ノ隆昌ヲ扶持センニハ時ノ平戦ヲ問ハズ、先ズ外衝ニ立ツベキ海軍ガ、常ニ、其ノ武力ヲ海洋ニ保全シ、一朝緩急ニ応ズルノ覚悟アルヲ要ス、而シテ、武力ナルモノハ艦船兵器等ノミナラズシテ之ヲ活用スル無形ノ実力ニ在リ、百発百中ノ一砲、能ク百発一中ノ敵砲百門ニ対抗シ得ルヲ覚ラバ、我等
軍人ハ主トシテ武力ヲ形而上ニ求メザル可ラズ、近ク我ガ海軍ノ勝利得タル所以モ、至尊ノ鑾徳ニ頼ル所多シト雖モ、抑亦平素ノ練磨其ノ因ヲ成シ果ヲ戦役ニ結ビタルモノニシテ、若シ、既往ヲ以ッテ推ストキハ征戦息ムト雖モ、安ジテ休憩ス可ラザルモノアルヲ覚ユ、惟フニ、武人ノ一生ハ連続不断ノ戦争ニシテ、時ノ平戦ニ由リ、其ノ責務ニ軽減アルノ理無シ、事有レバ武力ヲ発揮シ、事無ケレバ之ヲ修養シ、終始一貫其ノ本文ヲ尽サンノミ、過去一年有半、彼ノ風濤ト戦ヒ、寒暑ニ抗シ、屡頑敵ト対シテ死生ノ間ニ出入センコト固ヨリ容易ノ業ナラザシモ、観ズレバ、是レ亦、長期ノ一大演習ニシテ、之ニ参加シ、幾多啓発スルヲ得タル武人ノ幸福比スルニ物無ク、豈之ヲ征戦ノ労苦トスルニ足ランヤ。苟モ武人ニシテ治平ニ偸安センカ、兵備ノ外観巍然タルモ、砂上ノ楼閣ノ如ク暴風一過忽チ崩倒スルニ至ラン、洵ニ戒ムベキナリ。昔者神功皇后三韓ヲ征服シ給ヒシ以来韓国ハ四百余年我ガ統理ノ下ニ在リシモ一タビ海軍ノ廃頽スルヤ忽チ之ヲ失ヒ又近世ニ入リ徳川幕府治平ニ狃レテ兵備ヲ懈レバ挙国米艦数隻ノ応対ニ苦ミ、露艦亦千島樺太ヲ覬覦スルモ之ニ抗争スル能ハザルニ至レリ、飜テ之ヲ西史ニ見ルニ十九世紀ノ初ニ当リナイル及ビトラファルガー等ニ勝チタル英国海軍ハ祖国ヲ泰山ノ安キニ置キタルノミナラズ、爾来後進相襲テ能ク其武力ヲ保有シ世運ノ進歩ニ後レザリシカバ今ニ至ルマデ永ク其国利ヲ擁護国権ヲ伸張スルヲ得タリ、蓋シ、此ノ如キ古今東西ノ殷鑑ハ為政ノ然ラシムルモノアリシト雖モ、主トシテ武人ガ治ニ居テ乱ヲ忘レザルト否トニ基ケル自然ノ結果タラザルハ無シ、我等戦役ノ軍人ハ、深ク此等ノ実例ニ鑑ミ、既有ノ練磨ニ加フルニ戦役ノ実験ヲ以テシ、更ニ将来ノ進歩ヲ図リテ時勢ノ発展ニ後レザルヲ期セザル可ラズ、若シ夫レ常ニ聖論ヲ奉体シテ、孜々奮励シ、実力ノ満ヲ持シテ放ツベキ時ヲ待タバ庶幾クハ以テ永遠ニ護国ノ大任ヲ全ウスルコトヲ得ン、神明ハ唯平素ノ鍛錬ニ力メ、戦ハズシテ既ニ勝テル者ニ勝利ノ栄冠ヲ授クルト同時ニ、一勝ニ満足シテ治平ニ安ズル者ヨリ直ニ之ヲ褫フ、古人曰ク勝テ兜ノ緒ヲ締メヨト。
明治三十八年十二月二十一日  連合艦隊司令長官 東郷平八郎
  1. 2013/05/26(日) 08:11:53|
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