独り住まいになった森田定年2佐はカセット・テープでコレクションしている昭和歌謡を聞きながら警備課程の課長兼主任教官時代の研究を再開している。テレビは秀子が実家に持ち返ってしまった。それにしても映画やテレビの特集番組を録画したDVDもそうだがCDは外観では判らない劣化で再生不能になり、カビにだけ気をつけて保管すれば視聴を継続できるビデオやカセット・テープの生産を中止したのは家電メーカーの大失策だ。
「海栗島と見島に警備要員を増強するべきです」数日後、森田定年2佐は西部警戒管制団司令部防衛部に封書を出した。宛先の防衛班長は3佐なので肩書の元2佐は効き目がある。
西部航空警戒管制団隷下の第19警戒隊が所在する海栗島は対馬の北端から数百メートルに浮かぶ孤島で韓国とは直線距離で40キロしかない。それだけでなく対馬の南端にある陸上自衛隊の対馬駐屯地からは約80キロになる。一方、第17警戒隊がある見島は山口県萩市から約45キロ、朝鮮半島からは最短距離で約180キロだ。
「OBから興味深い提言が届きました」森田定年2佐の手紙を熟読した防衛班長は直属上司の防衛部長に報告した。本来は業務の参考にすればすむ私信だが、今も「基地警備の第1人者」と言われている森田定年2佐からの提言であり、実施を検討する価値があると判断したのだ。
「森田敬作3佐か、相変らず警備の神さまをやってるんだな」防衛部長は封筒の差し出し人を見て唇を歪めて呟いた。兵器管制幹部の防衛部長は離島の警戒隊長だった時に森田3佐の訪問を受け、基地警備に関する質問を2佐の自分を追及するかのように投げつけられたことがある。その内容は航空自衛隊の常識を逸脱していても傾聴に値したので同様の被害を受けた警戒隊長たちと「警備の神さま」と呼んでいた。
「確かに日本海側のサイトは海上からの攻撃には無防備に近い。人員を増強する必要性は認めざるを得ないな。しかし、日韓の対立の今後の展開を推測できない段階で増強するのは難しいだろう。人員を配置すれば食料を追加補給しなければならない。差し出した部隊は負担が重くなる。それを長期化させるのは現実的じゃあないよ」「森田2佐は西警団内で対処するのではなく防府南や芦屋の基幹隊員を使うように言っていますが」防衛部長は書簡を速読しただけなので十分には理解できていないようだ。空曹時代は警戒管制員だった森田定年2佐も日本海のコリアン・アンノウン(韓国から発進しているが飛行計画が届いていないため国籍不明機に識別している航跡)だけでなく東シナ海のチャイナ・アンノウンの出現奇数が急増していることは知らなくても緊張の激化で実動部隊の対処が増大することは体験的に理解している。
「そうなると横田(総隊司令部)に浜松(教育集団司令部)に要請させなければならん。幕(航空幕僚監部)を動かすには根拠が弱いな」「それでは森田2佐が指摘しているように官舎の家族だけでも本土に避難させないと危険に晒すことになります」森田定年2佐は韓国軍が朝鮮戦争やベトナム戦争で民間人を惨殺してきた史実を説明しながら分屯基地とは別の地域に設置されている官舎の警備の強化を提言している。兵器管制幹部の防衛班長は山頂のレーダー・サイトの運用管理班長として勤務したことがあり、森田定年2佐の指摘を読んで分屯基地から遠く離れた麓にある官舎が格好の攻撃対象になることを痛感していた。
「家族を避難させるには官舎を用意しなければならん。子供の教育の問題もある。過剰に動けばマスコミは『自衛隊が戦争の準備を始めている』と面白おかしく書き立てるぞ。少し冷静になれ」「それでは奇襲攻撃に対処できません」防衛部長の常識的な態度に苛立ちを覚えた防衛班長は語気を強めてしまった。
「失礼しました」「西警団で勤務していると韓国軍が日本を仮想敵国にしているのを目の当たりにするから現実として危機感を抱くのは理解できる。森田3佐は現場を離れた元警備職の立場で提言しているんだ。我々は現実的に可能な対策を講じなければいかん」防衛部長の指導にい防衛班長は背中に力を入れて姿勢を正した
「派遣要員を指定しておいてヘリ隊のCHー47で緊急空輸できる態勢を整えましょう」「チヌークは武装した隊員を何人乗せられるんだ」「搭乗可能人数はセンター・チェアを設置して55名になっていますが・・・」Cー1輸送機の搭乗可能人数は60名だが落下傘を装着した空挺隊員は45名になる。ただし、航空自衛隊の軽武装では55名と考えても良いはずだ。
「幕にも確認の形で警鐘を聞かせておけ。東京ではどこまで危機感を持っているのか判らん。石田政権はいまだに腹を括れんようだからヒラメ(=上しか見ない人間)の連中は余計なことは言わずに黙んまりを決め込んでいるだろう」「森田2佐には礼状を出しておきます」「次の意見具申は幕に出してもらいたいものだな」防衛部長の皮肉は森田定年2佐ではなく航空幕僚監部を揶揄している。防衛班長は黙って10度の敬礼をした。
- 2022/01/28(金) 14:51:05|
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